どちらにもつけない立場から。AV新法とセックスワークのことで考えたいろんなこと

最初にお断りしておきたいのですが、AV新法に反対するデモにも、それに対してのカウンターデモにも、私は賛同していません。
売買春やAVをなくしたいとも思っていないし、セックスワーク論も支持していません。

また、私は高校生の時に違法のマッサージ店でレイプされ、その1ヶ月後そのオーナーが経営する今考えればこちらも違法の、未成年者を雇っている風俗店で働き始め、その後10年間セックスワークに従事していました。自分でも何故か分からなくて私は風俗店でしか働けない人間だと信じていました。仕事自体すごくしんどくて、いつもお客さんがつきませんようにと祈りながら仕事をしていました。いったい何だったのか、お金がなかったわけでも、居場所がなかったわけでもありませんでした。
その間、グラビアの仕事を始めて、内容は「着エロ」と呼ばれるグラビアの中でも過激なもので、バストトップが露出されたものを勝手に発売されるという被害に遭ったり、やりたくない露出を現場で強要されたり、本当はやりたくなかったのですがやらないと仕事が続かないという言われ自慰行為を撮影させたりなどしています。その延長に映画界での被害がありました。(映画はピンク映画で、主演はAV女優さんです。)ただ、確かに自分の意思で作った作品もありました。初めてのヌード写真集や、映画でのヌードです。人から見たら、裸になることを選んだなんて「洗脳されていた」と思われるものかもしれません。し、それすら被害に遭っていなければ選ばなかった選択かもしれません。ただ確かに私の人生の中で、被害に遭ったことも含め自分が決めたことであることはわかってもらいたいです。

私は売買春の是非は、今判断できるものではないと思っています。売買春合法化反対、とは言えない立場です。かと言って合法化しろとも言えない、悩んでいるところです。

AV新法ができるということで、かなり短期間で十分な議論のされないまま、本番行為をグレーから白にしてしまうようなものはおかしいのではないかと思い、そういった争点だと理解し、「AV新法に反対します」のデモの呼びかけ人になりました。
その後、デモが近づきTwitterアカウントで「#性売買合法化反対」というハッシュタグがついたこと、また、賛同する人の中に障害者やセックスワーク自体を悪いこととするような言動も多々見られたこと(もちろん全ての人ではありませんが、「”そんな仕事”につかなくてもいいように」というような気持ちが見えるなと感じました。)があり、呼び掛け人を辞退しました。

かと言って、カウンターデモに賛同する気持ちにもなれませんでした。
被害を受けている当事者の被害を、被害として認識していないような気がしていたからです。

この間、様々な議論がなされたと思います。個人的に思うことがたくさんあったので、自分の頭の整理のためにもここに記録しておきたいと思います。
また、以前にも書いたのですが、私のセックスワークに対する基本的な思いもここに載せておきます。

正直、どちらのことを先に書くかどうかで、この先の文章を読めなくなってしまう人もいるのではないかと思います。
それくらい、セックスワークをして差別をされてきた当事者も、さらにその差別を受けながら現場で性暴力に被害に遭ってきた当事者も、このことについて軽視されたり差別発言を受けるのがきついのではないかと私は思います。

そういうこともあり、私はどちらのデモにも参加できずに、遠くから二つのデモを見ていました。

性的なサービスをお金で提供することはいけないことなのか

多分この見出しだけで、被害を受けた人はしんどいと思います、ごめんなさい。
私は今、このことに答えを出せていません。

Twitterで、売春やAV自体に反対している人は、処女性や貞操を求めていて、それはフェミニズムに反するのではないか、という意見を見ました。
もちろんそういう方もいるのかな?と感じることはあるのですが、一番の論点は「お金で同意は買えるのか」というところだと私は認識しています。

性的同意・性暴力の定義を考えたときに、「望まない性的な行為は性暴力です」、「積極的同意がなければ、性的な行為を要求するべきではない」という話がなされると思います。

例えば映画界の性暴力について、私が受けた被害を性暴力だと認識した方は少なくないと思います。それは、私が榊氏と性行為をした理由が「榊氏と性行為がしたいから」ではなく、「仕事がなくなるのが怖いから」であったからだと思います。私が求めていたのは性行為ではなく、仕事ということになります。仕事の先にはお金や生活、自身の喜びなど様々なものがありますが、基本的には生きていくためかなと思っています。

一方、私は先述したとおり、10年間ほど様々なセックスワークをしてきました。様々な要因がありましたが、常に行きたくないなと思いながら仕事をしていて、心情としては榊氏と性行為をした時と同じ気持ちでした。
グラビアでの露出の強要を我慢したのも、仕事のため。バストトップが出たものを許可なく発売されてしまった後もDVDを発売し続けたのも、仕事のため。

風俗でなんて働きたくないのに、ここしかないと思いながら通い続けて、どんどん心が削がれていったこと、それでも抜け出せなかったのも、当時の自分からしたら生きていくため。お金がないと人生が終わってしまうから、働かないといけない。

皆さんから見て強要と思われるものも、「自分で決めたことでしょ」と思われることも、どちらも心情的には同じだったりします。目的が性的な行為そのものではないから、私はDVDを出したり榊氏の性行為の要求を受け入れたり、風俗で性的な行為をすることもどれも「そうするしかなかった性的な行為」なのです。

一方で、私は2014年に「女の穴」という漫画の実写映画に出ていて、(ふみふみこさんの漫画です、とても素敵な漫画家さんなので読んでほしい)ここでフルヌードになって濡れ場に挑戦していて、同時にヌードの写真集も出しています。これは唯一、私が「積極的同意」をしたもので、自分でも誇りに思っているものなんです。写真集は今からでも買ってほしいと思うくらい。(一冊目の写真集だけであって、二冊目は全然望んでいるようなものではありませんでした。これも本当に難しいものですよね。実は2018年に本屋さんのB&Bで#MeTooトークイベントをしたときに、出演者の本が販売してもらえるということで一冊目の写真集をお願いしたのですが、手違いで二冊目の写真集が置かれてしまいとてもショックでした。二冊目は全く積極的同意ではなかったから。人の目についてほしくなかった。言えなかったけど・・・話が逸れました。)これも人から見たら「性的なことを仕方なくやったんでしょ」と言われることが多く、その度に傷ついてきました。

何を性的と定義するか、も人によって違うと思います。
この写真集を「可哀想な経験」と判断するように、人前で裸になることも性的と判断する人はいるでしょうし。

この私の積極的同意まで、消極的同意と判断されてしまうのはとても悲しいことだなと思います。
性的なことを仕事としてしたい、そしてそれにお金が伴うことはあると思います。

「お金で同意は買えない」という理由で全ての売春行為を禁止してしまうと、時に存在するかもしれない積極的同意をしている人から仕事を奪ってしまうのだと思います。

でも、消極的同意ってそもそもそんなにダメなことなの?という疑問も出てくるでしょう。

どんな仕事だって、嫌なことはある。に対して思うこと

「望まない」をどこまでと考えるのか、迷います。お金のためなら、性的な行為をしたくなくてもすることは望んだことになるのか。でも、そうなるとやっぱり私が映画界やグラビアの世界で受けてきた強要も、「望んで行ったこと」になってしまうのか・・・?働く形態や報酬の形が違っただけで、心の中は同じです。

ただ、ここで性的同意は積極的同意であること、望まない性的な行為は性暴力だという二つの観点から考えると、性的な仕事をお金のためにしている人は「暴力を受けに行っていること」になってしまうのか?と悩むのです。
でも、外から見えない「積極的同意」「消極的同意」を他人が判断できるわけはないし・・・「積極的同意でない場合は消極的同意でそれは暴力なのでやめましょうね」って言ったところで、それを他人に決める権利があるのか、あるわけないし、そんなの「積極的同意です」って言うに決まってるし。それで「無理して積極的同意だってことにしてるんでしょ」って言われるのもうざいし。

そういうこともあり、私は性的なサービス、売春など全てを廃止してほしいとは思っていないのです。

ただ、他の労働と違って仕事自体が暴力になることがあるのだから、と言う観点を全ての人に持っていてほしいと思うということです。それは今働いている人や過去に働いていた人に「それ暴力だよ」って言いたいのではなくて、望んでいない性的な行為は暴力と定義されていて、それは他の行為よりも心身共に心を傷つけるという調査がなされた結果だと思うので、自分では大丈夫と思っていても自分の中で大丈夫かどうか問いかけてみてほしい、ということです。

セックスワークをしている多くの人が「お金のために」という事実も存在します。人はお金のために仕事をするのは当然で、それはセックスワークだけではありません。みんな、生きるためにしたくない仕事をしていることでしょう。

私がこの時に考えたいのは、世の中には様々な仕事がありますが、望まないパソコン作業も望まないレジ打ちも、望まない調理をする行為も望まない編集作業も、多分ほとんどが今のところ「暴力」ということには定義されないと思います。

これはセックスワークをしている人にだけではなくて、全ての人に言いたいことです。恋人や夫・パートナーと性行為をする人、仕事先の人と性行為をする人、というか世の中で性的な行為をする全ての人に言いたいのであって、特別にセックスワークをしている人にだけ伝えているのではありません。

結婚生活の話をしている人がいたら結婚生活の中での性的DVの話、パートナーとの話のをしている人がいたらデートDVの話、グラビアの話をしているのなら露出の強要の話、映画界での話をしている人がいたら地位関係性を利用した性行為の要求の話、セックスワークの話をしている人がいたらその中で起こる性被害の話。AVの話であれば、その中で起こる性暴力や強要の話。今の社会では女性の人生には結局ずっとまとわりつく話です。私はどのシーンでもこういう話をしてきたという認識です。

「セックスワークだけ殊更」ではなくて、どんな仕事でも、どんな人間関係の中でも、性暴力に関して多くの人がなくしていこうとしているのだと思っています。

性暴力の話をしている、ということ

性暴力の特徴として、その時に被害だと気がつけない、自分の中で整合性を取るために迎合するような行動をしてしまう、自ら傷つきにいくような自傷行為を行い続ける、などのことは認識されてきているかと思います。

被害にあった人がそれに気がついて被害を告発し、同じ環境で働いている人にそれを心配し啓発するような言動は称賛されることが多いように思います。

例えば3月から相次ぐ映画界での性暴力の告発はそういったものであると認識しています。多くの人が当時「そういうものだ」「断ったら仕事を失ってしまう」「この世界から干されてしまう」といった思い込みを持たされ、監督からの性行為の要求を断れませんでした。また、それが監督と性行為をして役を取ることが女優の正しい振る舞いだと思い込まされ、自らその道を選んだ人もいるかもしれません。洗脳行為と呼べるのではないでしょうか。

そういった被害の当事者から、未だ被害の真っ只中にある人、これから被害を受ける可能性のある人に対して、「嫌だったら受け入れなくていいんだよ」という声をかけたり、事前に防ぐような対策が取られようとしています。相談窓口の整備や、撮影前・WSが行われる前のハラスメントしない宣言や、何かあれば安心して言ってください、監督側は強要になっていないか、十分に自分たちの特権性を自覚してください、どうしても脱ぐ行為に対して、脱げる人を優先して使うとなったら脱げない俳優は無理していまう構造とか、そういったことも議論されるようになってきました。

ただそれと同じようにAVで被害に遭った人やセックスワークで被害を受けた人が告白し注意喚起をすると、「セックスワーカーを主体性のない人間だということにするな」という言葉を投げかけられます。これをいつも不思議に思っていて・・・なぜ他の業界では許されること、むしろ称賛されることが、AVやセックスワークになるとこうなるのか、ずっと考えても答えが出ません。特にR18の映画やピンク映画はAV業界とも出演者、スタッフがかぶっていることもあり、全く別物というわけでもないと思います。ゾーニングされる表現物、という観点から見ても。

この問題は貧困の問題であって、性風俗の問題というわけではないという意見を聞きましたが、それもありますが仕事をしたくないけどせざるを得ないと思ってしていることは必ずしも貧困が理由というわけではないこともあるし、貧困が原因であってもその仕事特有の被害というものはあるわけで、だから映画界は映画界で独自の対策が必要という話になっているわけです。
AV業界もセックスワークも同じように業界内の対策はされてきたわけですが、それでは全然被害を被害とみなされないことが非常に多いのではないかと感じています。映画界でもグラビアの時も、性被害を告白した時に「うちの現場ではそんなことありませんでしたけど」「私はそんな目にあったことはない」「大手のメーカーはそんな実情ないです」とわざわざ言いにくる人がいましたが、みんな違う現場でそれぞれの仕事をしているんです。立場も人気も、契約も仕事内容も人間関係も全然違う。今SNS等で発言権のある、ツイートすればたくさんの人が目にするような人の言うことだけが現場ではないはずですし、その人が全現場を把握しているわけがありません。「強要」「性暴力」の認識が大きくずれていることも考えられます。

強制労働の場で暴力が多発している場合、その仕事自体をなくせとはならないよね、という意見がありそれはわかります。その通りだと思います。
しかしやはり、被害の実態に即したそれなりの対策は取られるのではないでしょうか。その被害が性暴力だとなった場合、性暴力の特徴に基づいて対策が取られるように話し合われていくわけで、被害に気がつけない人のことが考慮されるべきなのは当然ではないかと思います。

被害者は正しいセックスのあり方を求めたかったのか

カウンターデモ側から「国家が正しいセックスを決めるな」と言う言葉があったと聞きました。
確かに被害者からの要望で、様々な性的な行為を禁止してほしいということが見られました。(追記:AV新法に反対する抗議アクションの公式なものではないと認識していますが)これだけを単発で見ればそう捉えるのは仕方がないことかなと思います。ノーマルを他人や国家が勝手に決めるな、と意見はその通りで、それに対して苦言が出るのはわかります。

しかし、それがなぜ被害者からの要望として出たのか、は考えなければいけないのではと思います。

このように様々な性的な行為を禁止してほしいという要望に対して、性的マイノリティーへの偏見に繋がるから恐ろしいことだ、という意見、それもあると思います。しかしそもそも現状がAVはほとんどがシスヘテロ男性向けのものであることが女性への偏見を沢山沢山助長してきたことを無視していることも気になりますし、それを作ったのは出演する女性ではなくメーカーや消費する男性側なのではないでしょうか。

それを無視して性的マイノリティーへの偏見だけに言及することは、女性差別よりも性的マイノリティーへの偏見の問題の方が重要だと、人権に優劣をつけられているようでつらくなりました。

また、たくさんの人が指摘していましたが、これは労働の撮影という中で行われる性行為の問題です。先程の「なぜ被害者からこのような要望が出たのか」を考えてほしいんです。これは正しいセックスを決めてほしいからではありません。項目として存在していると、どうしても望まなくても引き受けなければいけないことになるからです。
今回議論となった「肛門性交」は、主にNG解禁というような場面で使われるオプション的存在です。これが問題なくできる人は全然良いのですが、すごくやりたくない人も同じようにいるでしょう。本数を出して売れなくなったり、お金がない時に選ばざるを得ない位置に置かれているんです。しかし現状、それは「自分から選んだ」ということに今現在はなるのではと思います。

この問題に対して、「各自がNG項目を細かく取り決めてやればいいのではないか」と提案してきた人がいましたが、被害の話を聞いていたのですか?と思い悲しくなりました。自分が断っても、「じゃあ仕事はなしで」と言われれば、そこで自分の業界での仕事は終了してしまう可能性が大きいです。
これが「稼げていない女性」が置かれる立場です。お金がなくて仕事をしている人は尚更です。どうしてもやりたくないことを、お金のためにどうしてもやらなければいけない、というのはやはり「選択肢がある」とは言えないと思います。

同様のことはグラビアや映画界でも起こっていると感じていて、グラビアですと昔は水着が大きかったのですが、今はいわゆる普通のグラビアとされるものでも下乳を出すのが当然になって、Tバックに近いものも履く女性が多いです。これは、自分がやりたくないと思っても、もうグラビア業界全体がそうなってしまったら避けられるものではないです。吉岡里帆さんのような事務所もしっかりしていて、その後もきちんとマネージメントが約束されているような方は断ることができるかもしれませんが。(それでもバッシングは来ていましたよね。水着になれないなんて舐めてる、みたいな。肌を出したくないということは、なぜか失礼だとか調子に乗っていると言われてしまう世の中で、駆け出しの女性が本当に主体的に選んでいると言えるのでしょうか。)

映画界では、女優にだけ「脱ぐこと」が求められてきた歴史があります。それはしばしば「女優の覚悟」という形で、やる気を見せろと言われて行われてきました。「あの女優はフルヌードをやった、根性がある」とされ、そうでない女優はやる気も根性もないとされてしまう。脱げる女優と脱げない女優なら脱げる女優が選ばれる。こういった中で主体的な選択は果たしてできるのでしょうか。それはやりたくない人が断って、それで済む話なのでしょうか?

しばしば「他の人はやっている」という言葉・事実は、強要のために使われてきました。それを何とか考えてもらえないか、という願いが込められた、禁止してほしいという要望だったと思います。

国家が正しいセックスのあり方を決めてしまい、偏見を助長するメッセージになる。それはごもっともな指摘です。なので私も、そのような要望が通ることがいいとは全く思いません。
その指摘と同時に、では被害者はなぜ禁止してほしいと願ったのかを考えることがなされなかったのが残念ですし、AVにおける性的マイノリティーへの偏見は心配しても、AVの影響で被害にあった女性へは「お気の毒」で済ませてしまうのは何故だったのか、どちらも本来はあってはいけないこととして考えなければいけないことではなかったのかと、残念に思います。

かといって、人によって無理な行為とかって違うし・・・本番行為はみんな負担なの?

ぶっちゃけ私は、風俗で働いていた時に「ゴムして本番行為できた方が楽だよなー」と思っていた人間です。尊厳がゴリゴリ削られるのは「やりたくない性的な行為」をしなければいけなかったからで、挿入があるとかないとかは正直関係ないんだけどな・・・という気持ちがあります。
というか、私は触られたりキスしたり、という行為の方がキツくて、「本番を禁止」ということが「それ以外の性的な行為は大丈夫」ってならないならないのか、心配なところがあります。

そういうのもあり、先述した「様々な性行為を禁止してください」という要望は、今働いている人にとっては自分にとって楽なのになってことが禁止されてしまう怖さもあるんじゃないのかなと思いました。

人によって嫌なこと、大丈夫なこと、むしろしたいことっていうのは違うので、やはり一律禁止は求められないなという気持ちです。しかしそれだとやっぱりさっきの「他の人がやっているから」問題はどうすればいいのだろう・・・とずっと悩んでいるところです。

要望を受け入れてほしい、ではなくて、なぜその要望が出たのかをもう少しみんなで考えてほしい、という思いです。

本番行為を禁止してほしい、という要望ももちろんわかります。そもそもお金で性行為を要求することは暴力だ、その考えも性暴力・性的同意の定義に合わせるとそうだろうと思うし。だからそれはもう暴力を容認することなんだ、というのもすごくわかる。
一方で、その性的という定義、「嫌」という気持ちも人それぞれで、そもそも何が性暴力だったかどうかも本人が決めることなんだと思います。

さらにまた一方で「それは性暴力だよ」と人に言われて救われた自分がいるので、全て本人の判断に任せることがどれだけ傷を長引かせ傷つけ続けることになるかも経験しているので、うーん。。。どうすればいいのやら。

私が脱いだことはそんな可哀想なこと?

以前、講演会でフェミニズム雑誌で「シモーヌVol.1」を販売してもらったことがあります。巻頭は私のヌードグラビアです。
これを見た女性が「なんで過去に男性に消費されるようなグラビアをやっていて傷ついたのに、今もこんな裸の写真を撮るんですか?」という質問を講演中にしました。これが結構ズシンとショックで。

何点かショックだったのは、
・私がグラビアで傷ついたのは「同意のない」グラビアや裸が公開されたこと、男性の性差別的やセクハラなどの言動であって、私の裸が公開されること自体や男性がそれを楽しむことに対してではないということ
・フェミニズム雑誌に載っている女の裸ですら、男性が楽しむものかのように思われること
でした。

この発言って、やっぱり強要や性差別的な、女性に対する家父長的な価値観から「みっともない女性」というような言動に対する批判ではなくて、「私が裸を写真にして公開すること」への批判や嫌悪なんだと思うんです。

そういうことが、AVや風俗、売春に反対する人たちからも感じられることがあるなと思います。そして、それに対して「家父長制フェミニズムはやめろ」という言葉になるのではないかなと思いました。

ここも結局、「お金で同意は買えるのか」の結論が出ない限り難しいことなのですが、積極的同意すらこう回収されてしまうことがあるんですよね。

セックスワーク当事者に向かって「セックスワーカーの声を聞け」?

私これまじでずっと意味がわからなくて。今回のAV新法を進める人たちも、それに抗議する人たちも、また被害を訴えてきた人たちの中にも当然セックスワーカーはたくさんいるわけです。それに向かって「セックスワーカーの声を聞け」はおかしくないですか?
こうやって、被害を訴える側を当事者ではないかのように印象操作をしているように思えます。

一部のセックスワーカーをセックスワーカー当事者ではないかのように振る舞うのは、セックスワーカーへの差別とは言わないのでしょうか?「自分は被害に遭っていないから」「主体性を尊重しろ」「セックスワークisワーク」と言わないセックスワーク当事者は当事者とはみなされないですか?

今回のデモは「セックスワーク当事者と支援者やフェミ:被害を訴えるセックスワーク当事者と支援者やフェミ」であって、少なくとも「セックスワーク当事者と支援者やフェミ:全然関係のない部外者やフェミ」では全くないはずです。こういう印象操作がずっとされていないか、皆さんにも考えてほしいんです。

当事者の声はどちらも聞かれなければいけないはずです。確かに被害を訴える側から差別的な言動が見られることは多々あって、そこに対しての批判がもっともですが、それは当事者を当事者として扱わなくてもいい理由にも、被害者の声を聞かなくてもいい理由にもならないはずです。

セックスワーク論を支持する人たちがこのような振る舞いをすることが多いと感じています。多様な声を聞けと言いながら、被害を受けた当事者の声を黙らせてきたのではないか、今一度考えてもらいたいのです。

また、「当事者じゃない人が口を出すな」ということも、もう少し考えて発言することが必要かもしれません。被害に遭った当事者が、名前や顔を出して当事者と言えるようになるには時間がかかるかもしれません。私も最近やっと言えたことで、なかなか口にすることができませんでした。セックスワーカーへの差別の酷さ、ご存知なんですよね?簡単に言えるわけないじゃないですか。ましてやその仕事をしたくなかったと思っている人間ですよ。
アウティングの強要になりかねないことだと思います。し、セックスワーク論に賛同している非当事者はめちゃくちゃ発言してるの意味わかりません。
「当事者じゃないですよね?」って当事者じゃない男が文句つけてくるのマジで意味がわかりません。

性的な行為はそもそも特別なものなのか

「本番行為は安全ではない」という意見もわかります。コンドームは避妊確実ではないし。ゴムをしてピルを飲んでいればいいかな?
でも、となると誰とも性行為できなくない?夫とか恋人しかダメってこと?お金が絡んでないからいいのか。じゃあ夫がお金出してくれるってなったら本番行為できない?恋人がお金をくれる人だったら本番行為しちゃダメなのかな?特定の人とならいい?特定じゃない多数の人とは性行為しちゃダメなのかな・・・ああ、だから私は高校の時に同時にたくさんの男性と性行為をした時期があったのですが、ヤリマンって言われたわけね。うざかったな・・・何がダメだったんだろう。好きなようにやらせろよ。そんなことを思い出しました。興味があったんだよセックスに!

環境的にも身体的にも安心・安全。お金ももらえる。じゃあまぁこれくらいいいかな。これは積極的同意じゃないからだめ?お金で困っている人にそれを言う?いやいや、お金がないんだったら福祉に繋げましょう。そうだね本当にそうだな・・・福祉に繋がれない人間は?福祉に繋がれない人間を狙って性風俗に誘い込むことが問題。本当にそうだな・・・でも仕事で人の粘膜や体の中に触れるんだったらそれなりの資格など必要なのでは?これ本当にそう思う。でもそれだと今日困って働きたい人はどうすればいいの?行く場所ないじゃん!だから風俗に行く前に福祉に繋がれるようにするんでしょ!でも福祉につながってもたくさんのお金がいますぐ手に入るわけではないよね。人間らしい生活ができる?かといって、やりたくない性行為を仕事ですることは精神的に人間らしくいられる?いられなかった人もたくさん見てきたよ。どうする?どうすればいい?貧困で困る人がいることを理由にその問題を放置する、それって大丈夫なのか・・・?やっぱりそもそもお金がないときにすぐにできる仕事がセックスワークしかないってのが問題なのでは・・・?仕事を始めてから選択肢がなくなることもあれば、やはり最初から選べない状態だということが多々起きているよね。障害を持った人を判断力がないと狙って誘う人がいるよね、でもこれを防ぐために障害を持った人を仕事に引き入れるなと言うと障害者差別になるよね。どうすればいい?障害を持った人に付け込む側は差別しているとは言わないの?たくさん見てきた、「あいつ馬鹿だからAV出させときゃいいよ」って言う、女の子と仲がいいとされる立場の男。AVやめちゃうから舞台とかやらせて芸能人の気持ちを味わわせてるんだよって言ってたその子のマネージャー。風俗で働き出した途端に恋人のように振る舞い出した従業員の男。私は全然興味がなかったからよかったけど、彼を好きになってたらどういう思いで働いたんだろう?無理して出勤回数増やしたかな?

そもそも性的な行為って、なんでこんなに特別扱いされてるの?マッサージの提供とは何が違うんだろう?なんで性的な行為は嫌々だとこんなに心が削がれる思いになるんだろう?なんで性的な行為は望まない場合暴力になるんだろう?性的な気持ちよさとマッサージを受けての気持ちよさの違いは?気持ちの問題?性的な気持ちいいはお金払ってサービス受けちゃダメなのか?でもやっぱりここに従事する人の男女差があるのだから、そこから考えなければいけないよね・・・様々な形で女性が男性にジャッジされること、選ばれること、一方的に楽しむものとして存在していることが表れているこの日本。この状態で今の性風俗のあり方を肯定していいのか?これは男女格差が解決されればなくなる問題であるだろう。でも、それっていつの話?それまでの間、今もセックスワークの中で起こっている性暴力を放置していいのか?放置しちゃダメだけど現状そういうこと言ってるよね?レイプにあってそのままセックスワークをして、働く中で性暴力にあい続け、グラビアではバストトップ出されちゃったからここでやめることはできないし、こんな私は風俗以外の仕事できるわけがないよね?だって体を売ることって本来楽なことなんでしょ?それすらこんなにしんどくて大変だと思う私が、他の仕事できるわけないよね?そう思いながら過ごしてきた10年間は、どうしたらよかった?誰かに助けて欲しかった。「あなた洗脳されてない?」って声をかけて欲しかった。でも当時の私がそんなふうに言われて、受け入れられたのかな?でもやっぱり、誰かにその仕事嫌ならやる必要ないんだよとか言って欲しかった。主体性を奪われるという被害にあった私の主体性を尊重する、って言われたら悲しい。尊重する前に取り返して欲しかった。

ぐるぐるぐるぐるずっと考えている私の高校生から今日までの人生とセックスやセックスワークやグラビアや脱いだこと、濡れ場を演じたこと、芝居をするために性行為を受け入れたこと、好きな人とセックスをすること、好きでもない人とセックスをすること、お金がなくて不安だったこと、自分はどうやって生きていけばいいのかわからなかったこと、今後もお金や仕事がなくなったら私はやりたくない性的な仕事をする可能性がきっとあること、そのときに本番行為をするかしないか選べる状態にあるのかということ、自分にとって負担にならないのかということ、我慢できないこと、我慢が耐えられること、耐えられると思い込んでいるだけの我慢があるということ、私は次の映画で脱いでセックスシーンを絶対に演じたいと思っていること、これから脱ぐことも女性差別の助長になると言われるのではないかという恐怖、でもそれは仕方のないことでもあるという実際にある女性差別の現状。

正直なことを言うと、「セックスワーカーの主体性を尊重しろ!」とか言ってくる当事者じゃない人の言葉を聞くと腹が立つ。現場に行って追い込まれてみればいいのに。今後きっとセックスワークをしない人生を送るような人にごちゃごちゃ言われるの、本当に腹が立つ。でも、そんな女性って果たしているのかな?という気持ちも持つ。誰もが自分ごと?そうなのかもしれない。

もはやみんな差別してるのでは

もう今回の件は、誰もが差別者になっているのかもしれない。性風俗で稼ぐことをよくないことだと思っている人も、挿入行為はするべきではないと思っている人も、被害を被害と見なそうとしない人も、障害者は守られるべき存在だと言う人も、障害者が狙われることを無視して放置しようとする人も、自分はいいからと言って望まない性的な行為を要求されている人を見捨てようとする人も、「そんな仕事やりたくないでしょ」という前提で話しかけてくる人も、被害を受けたセックスワーク当事者に向かって「セックスワーカーの声を聞け」という人も、肛門性交などについて「そんな悲惨なことをさせられるなんて」と思っている人も、「My Body My Choice」と既に「My Body My Choice」を奪われてしまった人たちにぶつけることも、こうやって「私はどっちの立場もわかりますよ」みたいな顔してブログなんて書いている私も。

足りないことは多々ある文章です。当事者として答えが出ません。でも考えなければいけないことで、とてもじゃないけど黙っていられませんでした。安全な場所から見ている人は、多分どっちにもいて、そういうフェミニストに対して腹立たしいです。

今回は、トランス差別に反対している人にカウンター側が多く、また、トランス差別をする人たちに緊急アクションを支持する人が多く見られると思います。確かに女性の主体性や性のあり方について多様だと考えられるのかそうでないのか、などの関係はあると思います。

ただ、注目して欲しいのはセックスワーカーやその他全般の性暴力の被害者支援をしてきた人がカウンター側にはなかなかついていない、セックスワーク論をゴリゴリに推していることはあまりないのではないか、というところです。

普段あの人はトランス差別に反対しているから今回もこちらが正しいのだろう、とか、普段トランス差別している人があっちを支持しているからあっちは間違っているのだろう、という安易な考え方はしないでほしいです。全ての人に自分の頭で考えてほしいと願います。カウンター側を支持している人にはミソジニストも多いですし。トランス差別をしている人の他の言動を支持してはいけないように、ミソジニストの他の言動も支持しちゃダメでしょう。

2週間くらい前まで、昔付き合っていた彼氏が結婚してよくわからないショックを受けていたのですが、そんなことすっかり忘れてしまうくらい色々なことを考えざるを得ませんでした。

やっぱりどうか、被害者の声をきちんと聞いてほしいし、仕事自体を差別していないかも考えてほしいし、性暴力とは、性的同意は、というのも考えたいです。

そして、忘れられがちかもしれませんが、世間のセックスワークや脱いだ女に対する偏見・差別は本当に未だひどいです。そういう仕事をしていた人間の思いは尊重しなくてもいいと思われたりとか、私のTwitterには私の裸の写真がリプでつけられたり、なぜか発売された写真を自由に使っていいと思い込んでいたり、セックスできると勘違いしてこられたり、言わないけれど仕事を依頼しないようにしたり、オーディションで「過去に脱いだりアダルトに出演した人は受けられません」と書いてあったり、「あの人は脱いだ人」という扱いを受けたり、言葉にし尽くせない侮辱的な思いをたくさんしてきました。

女で抜きながらその女を見下す男たち、それを聞いて内面化する女たち。本当にやめてほしい。「たくさんお金もらってるのだからその差別も受けるべき」とか言われたことありますけど、はい????な訳ないでしょ、報酬にそんなの含まれてないし、人権があります!

どうぞこのブログが、皆さんの何か考えるきっかけになったら嬉しいし、私も引き続き考え続けていきたいし自分の中にある当たり前と向き合っていきたいです。

※AVの話、グラビアの話、映画界の話、風俗の話をごちゃ混ぜに書いていますが、私から見ておんなじようなものだったのでこういう書き方になっています。AVの現場は経験したことがないけれど、グラビアでは自慰行為を見せたり人の手で体を触られたりしているし、Amazonではアダルトのジャンルに並べられるので、本番行為のないAVがあるならばそんなに変わらないと思うし、AVのオファーは何回か受けていてそういうのも、少なくとも当事者ではない人よりは近いと思って書いています。

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フェミニズムに人生が救われた――。恋愛やセックス、仕事、人間関係。生活と地続きに考えるフェミニズムの形。石川優実はなぜ闘うのか。自らを見つめ直した渾身の書き下ろしエッセイ!

どちらにもつけない立場から。AV新法とセックスワークのことで考えたいろんなこと” に対して6件のコメントがあります。

  1. 通りすがり より:

    一部上場企業、今や誰でも知っているベンチャー企業、世界シェアトップの外資企業、と渡り歩き、今は風俗店のオーナーをやっております。

    自分で言うのも何ですが、かなり特殊な経歴だと思います。

    で、

    この記事を読んだ感想というか、今回の一連の流れ?騒ぎを鑑みた上での思いとしては以下に尽きます。

    「性を扱うからと言って特別視し過ぎ、どんな仕事も好きでやっている人はいない、そもそも同意なんてそんな高尚な話は不要、皆生きてくためにやってるだけ」

    ですね。

  2. 長い。冒頭から論旨不明。

  3. うわばみ より:

    石川さんのこちらの記事に概ね賛同します。
    自分はセックスワークに関して部外者ですが、今回の法案の件に賛成反対どちら側の意見もそれぞれ少しずつ間違ってる部分があるように思い、迂闊に自分の考えを発言できず抱え込んだ結果心身ともに体調がドン底になり、数日前からTwitterをお休みしています。インフルエンサーでも何でもない、一弱小アカウントですが。

    法案に反対している団体の共同声明を読みましたが、なぜ具体的な行為の禁止指示があるのだろう、それで本当に被害者が守られるのだろうかと疑問でした。こちらの記事を読んでそれらの指示は業界の事情を鑑みたそれなりの正当性があるものだということは分かったのですが、やはり石川さんと同じように「そこに書かれている以外の行為」が苦痛な人も守ることはできるのだろうかという疑問が残ります。

    また、法案に賛成側の方が、立場や発言の内容次第で同じセックスワーカーである方を蔑ろにしているように感じるのもとても分かります。そもそも被害者救済の話であるはずなのに、なぜ問題なく稼げている人の仕事を庇うような言い方の一点張りなのだろう、と。
    また、セックスワーカーの安全を守る団体の代表の方がセクシストを呼び寄せる犬笛のようなツイートをしていたのにもかなり削られました(無意識なのかもしれませんが)。
    ただでさえセクシストのシスヘテロ男性に「利用」されやすいセックスワーカーとそれに関わる人たちが、自らそれを後押しするような発言をしてどうするんだと。女性含むマイノリティの人権が深く関わる話だと本当に分かっているんだろうかと。

    そして、トランス差別に反対している人が法案に賛同(反対派へのカウンター)をしている率が高いというのも、自分のTLはトランス差別反対を表明している人ばかりなのですごく感じました。ただ、石川さんの言うように「だからといって今回の法案の件まで絶対にその人たちが100%正しいと判断するのも危うい」というのにも同意します…… そもそも反トランス差別の人たちが今回の法案に賛同してるのは、反対派にトランス差別者が多いことによるバイアスもあるのでは? と考えてしまう自分がおり、罪悪感と自己嫌悪でいっぱいです(自分自身も反トランス差別を表明しているうちの一人ですが)。

    結果どこにも居場所がなくなり、自分のようにどちらにも賛同できずに葛藤している人間がどこかにいないかとWebブラウザにブクマしているリベラル系のサイトを片っ端から確認していたところ、石川さんのこの記事にたどり着きました。

    石川さん個人の意見表明と思考整理のための記事でしょうに全く無関係な人間がこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、自分はこの記事を読んで少し救われたような気持ちになりました。文章にしてくださりありがとうございます。

  4. ぱねるぽん より:

    あなたのこのエントリーを読ませていただき、より深く考えるきっかけになりました。ありがとうございます。あなたも書いておられわたしもそう思うのですが政治的に経済的にまた主体的に男女格差がなくなれば、ここに書かれているかなりの問題は「スッキリ」するように思います。ただこれも書いていらっしゃいますが、そうなるまでどのくらいかかるか見当もつかないくらい遠いというのも現実ですね。そしていま困っている人を助けるのが先決というのもわかります。

    いろいろ思いますが一番強く思うのは、どうかあなたがこの先心も身体もお元気に過ごされて、思うこと考えることをおもうように発信され続けられますようにということ。

    応援しています。

  5. ぱねるぽん より:

    些少ですがサポートさせていただこうと思いましたがスマホのせいなのか?サポートできません。何が悪いのかスマホに疎いのでどうしようもありません。ごめんなさい。

  6. おぼち より:

    たまたま目にして読ませていただきました。当事者・仕事としてではないですが、どこまでが自分の意志だったのか、同意したはずでも翌日嫌悪感で潰れそうになったり、消費されたような感覚を覚えたり、何年たっても後悔やモヤモヤがたまに湧き上がってきたり、そういう感覚はあります。難しい問題で、万能な線引はたぶん無くて、どうしたらベターか、誰のどんな問題があるからなのか、ちゃんと向き合って考えることが大切と理解しました。言葉にしてくださってありがとうございます。

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