フェミニストを名乗るなと言われて。

私はフェミニストというのは、人を差別することなんてない、誰かを傷つけることなんてない資格のある人間が名乗るものなんて思ったことがありません。

#MeTooのブログを書いてから5年が経ちました。まだこのブログを書いた頃は、フェミニズムという言葉も知りませんでした。

私は性被害に遭って、もう性被害に遭いたくないと願って、その性被害は女性差別が根底にあることを理解して、女性差別はなくなるべきだ、全てのジェンダーが平等であるべきだよね。そう思ったから、「あ、じゃあ私はフェミニストって言うんですね。わかりました」と、この社会で生きる人間の義務として名乗る責任があるのだと思い、そう名乗るようになりました。

しかし、実際にはフェミニストを名乗り活動をするとアクティビスト以外の肩書きはなく、更に完璧を求められます。
時に自分に起こった性被害について語ったり女性差別をなくすためにした運動を勉強の教材扱いされ、アイコンとしての振る舞いを求められ、時に私が訴える「傷ついた」「尊厳を奪われる行為だと感じます」はひたすら無視されました。

過去にあった例。

その反面、それらに抗議するときに言いすぎてしまったこと、誰かを傷つける時は何倍も何倍も激しく批判されます。

フェミニストを名乗るにはそれなりの資格や信頼や評価、知識、何をされても人を傷つけないことが求められるなら、私は全然フェミニストではないしフェミニストでなくていいです。

フェミニストの皆さんに、名乗る資格がないと言われました。私は人に言われたことを聞きますので、名乗るのはやめようと思います。反差別の活動も、する資格がないみたいなのでやめようと思います。

私もその人たちに同じように「フェミニストなのかなぁ」と思っているのですが、フェミニストかどうかは本人が決めることだと思っているので例えそう思っても私が何かを言うことではないと思っていました。でも、私は言われます。
例え私がそれを言っても、私が思うその指摘が聞かれることはありません。私側だけが一方的にジャッジされ、決定されます。

この1ヶ月間、私はトレメンドスサーカスという劇団と客演の葭本未熾さん(葭本さんは劇団員ではないです。そういうことすら認識してない人たちが、かなり雑な批判を続けています。)が作った、演劇界にずっと起こっているレイプを告発した舞台「女の子は死なない」の動画に対して、ある性的マイノリティのTwitterアカウントが軽い気持ちで言及をしました。それに対して、被害者や告発者たちの尊厳を傷つけていないのか?と繰り返し訴えてきました。この劇団がトランスヘイターだ、セックスワーカー差別だと言われていることに対して、本当にそうなのか、安易に差別者だと言っていないか、そもそもトレメンドスサーカス自体が当事者が多数所属している団体だということを理解しているのか、ということをずっと訴えてきました。

その中で、Twitterでしかオープンにしていない他者のセクシュアリティにインスタグラムで言及したことをアウティングしている、加害行為をしていると言われています。しかし誰も、なぜ私がTwitter外で私がこの話をしなければいけないのか、に触れません。
すでにトレメンドスサーカスへのヘイター認定はTwitterを越え、実際のチケットの売り上げに大きく影響しています。

一体どういう流れでトレメンドスサーカスはヘイター認定されたのか、何が起こってこのようなことになったのか、把握できないままヘイター認定だけが広まり続けています。私はこれは、劇団に対する名誉毀損や加害行為にあたるのではないか?と考えています。

その流れを説明するために、インスタのストーリーでもう話の流れを追えない人たちに事実を知ってもらうために私は演劇界にずっと起こっているレイプを告発した舞台「女の子は死なない」の動画に軽く言及したそのTwitterアカウントが性的マイノリティだったことを書きました。相手が性的マイノリティだということを話すことなく、劇団がトランスヘイターではないという訴えをどうやってすればよいのでしょうか。ヘイター認定されても黙って受け入れろということでしょうか。既にそれはTwitterの中だけの話ではなくなっているのに?それとも私はインスタグラムでは相手は性的マイノリティだということを書かずにシスジェンダー扱いしてミスジェンダリングすればいいのですか?

そもそもアウティングの話であれば、その流れの中で非当事者だと言われたことでアウティングせざるを得なくなった人もいますが、そのことには言及されず、演劇界にずっと起こっているレイプを告発した舞台「女の子は死なない」の動画に軽く言及したことにだっていまだ「別に軽く扱ってない」とかばかりです。

自分たちの「尊厳が傷つけられた」は絶対で、こちらの訴える「尊厳が傷つけられた」は無視するもしくは「そんなことしていない。」

始まりに何が起こったのか、透明化する。私がこの3年間、ずっとやられてきたことです。

「女の子は死なない」は、演劇界にずっと起こっているレイプを告発した舞台です。実際に被害者がいる性被害を元に、実際に被害をずっと実名で#MeTooしてきている当事者たちが作り上げた演劇です。
それを他者が勝手に「それは実際の告発とは違うから」と言い気軽に言及することがなぜできるのですか。
告発の形はそれぞれです。
本という形で出す人もいる。私みたいにブログに書く人間もいる。「彼女は頭が悪いから」のように、フィクションにして出されることもある。でも、どれも、例えそれがフィクションであろうと性被害を元にしているものであれば、気軽に「観てないけど・・・ん、って感じ」とツイートできますか。心で思うことはあっても、わざわざ本人や被害者たちが目にするであろう場所でツイートしますか。それと作家の人間性を絡めてツイートするなんて、軽率ではないですか。それを見た被害者や作家、演者たちは激怒して当たり前だと思います。でもいつも「尊厳を傷つけられたら怒っていいんだ」と言っている人たちが、実際に尊厳を傷つけられて怒った人たちに対して沢山沢山トーンポリシングしたし、話なんて全く聞かず、演劇を揶揄することをやめませんでした。そういう怒る中で、確かに言いすぎたことや差別的な発言がありました。でも取り上げられるのはそこだけ。
なぜ最初に怒られた時に「軽率だった」と振り返ることができなかったのか、いまだに私には理解できません。

演劇界にずっと起こっているレイプを告発した舞台「女の子は死なない」の動画に性的マイノリティのアカウントがあまりにも軽く言及したこと。このことをきっかけに始まった今回の一連の流れです。今もずっと、始まりの出来事を無視したままです。演劇のことも、演劇を作る人たちのことも、演劇界の性被害のことも全て軽視していると私は思います。

最初の話に戻ります。

フェミニストを名乗るようになり、完璧を求められるようになったと感じている、と書きました。それはアンチフェミニストからもフェミニストからもです。

しかし、今回気がついたことがあります。

同時に私もまた、私が求められたことと同じように他のフェミニストにも完璧を求めていたと気がつきました。
私にわかることなら、私よりずっと前から勉強してきているフェミニストたちは当然理解できるだろう、みんな頭が良くて勉強をずっとしてきているのだから、見えない誰かが差別されていることだって当然理解できるだろう、すぐに把握して寄り添うことができるだろうと、当たり前のように思っていました。

でも違う。
研究者に「ヒールを履いて働く必要がなかったから、そんな状況の女性がいることに気がつくことができなかった」と言われたように、私から見えることが見えないことも当然あると、やっと気がつきました。
私は研究者や編集者、ずっと運動や勉強をしてきている人たちに理解の完璧を、知らず知らずのうちに求めていました。

頭の悪い、勉強の足りない自分にすらわかることを、先輩たちがわからないわけがないとずっと信じていました。

私もまた、フェミニストたちをいつも間違えることのない完璧な存在だと信じ込んでいました。

私にはわからないこと、他の人にはわからないこと、今はその答えが出せないこと、いろんなことがあります。

わからないならそれでいいし、必ずしも一緒に関わり続けていかなければいけないなんて決まりはありません。

私はその人たちから信頼を得るために、評価をされるために生きているわけではありません。
私はずっと、私が私として自分の人生を生きていくためにフェミニズムを選択しました。

でもそれをフェミニズムがまた抑圧し制限するのなら、私に必要なものはフェミニズムではありません。

何回も伝えてきましたが、私は皆さんから一方的にジャッジされる立場の人間ではありません。
皆さんが私に失望したように、私は結構ずっと、多くのフェミニストと関わりたくないと思っています。失望はし続けています。でも、それをわざわざ伝えてこなかったのは、誰にも、私にも他者を一方的にジャッジする権利はないと考えていたからです。

しかし、誰かが私をジャッジするのなら、私も同じくそれを伝えます。私もあなたのことを応援していません。信頼もしていません。間違っていると考えています。今一番声を聞かなきゃいけない立場の人を見誤っていると思います。

でももちろんそれを、受け入れなくていいです。これは私の考えなので、あなたが受け入れる必要はありません。ですが当然、それは私も同じことで、あなた方の考える正しさを受け入れるつもりはありません。

いいです。今関わりのある方達から全仕事がなくなっていいんです。全支持がなくなっていいんです。私の責任で私は信頼をなくしてもいいんです。信頼を欲しいと思っていないし、「挽回」なんて全く求めていません。私の被害で勉強するのもいい加減やめてください。「応援」も支持も、ずっと言ってますけど本当にやめてください。私の言うことを簡単に信じないでください。私もフェミニズムから得たものを簡単に信じたことはありません。

私は私が信頼されたい人たちに信頼されるような行動を取っています。私は自分の大切なものと人たちと、今私からしか見えていないであろう傷ついている人たちに信頼されたいです。その人たちを失望させるようなことは言いたくないです。それが私の考えです。

トランスヘイター扱いされているトレメンドスサーカスさんの「メサイア・カーミラ」と言う作品の最後、大統領選挙に出馬したカサンドラという女性がいました。彼女の演説がとてつもなく今の私に響いたのは、このブログに今書いたようなことを語ってくれていたからだと思います。

トレメンドスサーカスさんの舞台は、後からじわじわ「あ!こういうことか!」な発見があります。それはフィクションだけではない、私たちの実生活に繋がるものです。どうか人の作ったものを勝手にフィクションだからと言って、ただ消費するためだけのものにするのはやめてください。

私が心から尊敬している人たちの舞台。
明日明後日もまだ公演があります。

長くなりましたが、最後に改めて。
私は素直なので、「批判されたら反省し人の話を聞くべきだ」というフェミニストたちの意見をきちんと聞いて、フェミニストを名乗ることも反差別の運動をすることももう終わりにしようと思います。

私が言ってもフェミニストの人たちは聞かないでしょうが、それはなぜなのでしょうかね。人は誰しも平等だと思っていました。
他の人が持っている権利は私も持っていると思っていたし、他の人の被害の声が聞かれるのなら私の声も聞かれるのだと思っていました。

誰かがこれは差別じゃないかと、これは誰かを取りこぼしていないか、という声が上がったら聞くのは当然のことで、今回トレメンドスサーカスさんというトランス当事者の人たちから「トランスジェンダー問題」セックスワークの章に関する声が上がったのなら、アライとして、マジョリティの立場としてまずは話を聞かなければいけないと思っていたのですが、どうやら人によって?当事者扱いされないようです。

とってもアホらしいな、と思っています。多分皆さんが私に失望しているのと同じで、私も失望しています。お互いに思っているわけなので、もう関わるのはやめましょう。必要がないです。そもそもお会いしたこともない人たちがほとんどです。

この3年間、求められた仕事をしてきました。私から仕事をくれと言ったことは、多分一回もありません。そのような状況で、「自分たちを納得させろ」「自分たちの評価を挽回しろ」という立場を取られるのは、本当に理解ができません。

Twitterは私をコンテンツ化してくれたなぁと思います。
フェミニストにすら、実際に生きている人間扱いされなかったと思うことがとても多かったです。
大切な友人たちはいつも取り巻きやイエスマン扱いをされ、悲しかった。

ただ、私が被害を訴えた時、傷つきを訴えた時、それはやめてくれと訴えた時。フェミニストの人たちにはせめて他の人たちにしているように「あなたの傷つきを聞くよ」と言って欲しかった。無視をしないで欲しかった。まずは一旦話を聞いて欲しかった。
それも私はフェミニストに完璧を求めた故の希望だったのだと、今改めて気がつきました。

ありがとうございました。

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