「セックスワークイズワーク」というスローガンに感謝しているし抉られ続けている

言語化することが非常に心身に負担であるセックスワークのことですが、でも書いて残しておかないときっとないことにされていくんだろうと感じるので、今日もここに書き記しておこうと思います。
※途中、過去の性被害についての詳細を書きます。自分にとって切り離せないことなので事細かに書くと思います。閲覧にはご注意ください。

「セックスワークイズワーク」というスローガンの使われ方

「セックスワークイズワーク」というスローガンに勇気づけられ、励まされた人間です。

それは、長年セックスワークに身を置いて生きてきた自分にも、人間としての権利があるんだと知ることができたからです。風俗で働いたりグラビアやDVD、映画で脱いだりしたからって、労働者として自分の権利を訴えてもいいと知ったし、差別されなくていいと知ることができたし、自分のことを汚い人間だなんて思わなくてもいいし、そういう扱いをしてくる人には怒って、「差別をやめろ」と言ってもいいと知ることができたからです。

その中には、セックスワークにおける性暴力を我慢しなくてもいいんだという気持ちになったことも含まれます。

今までの仕事の中で受けてきた様々なことを、「仕事だから仕方ない」と、痛みを見ないふりをしなくてもいいんだ。そう思えたことは、私が今こうやって当時受けた性暴力をかなり積極的に隠さずに発信している一つの大きな要因です。

しかし、私がセックスワークを始めるに至った経緯、その中で起こった望まないこと、そもそも望まない性的な行為をずっとやってきたという性暴力を語ると、「どんな労働でもそういう側面を孕んでいる」「仕事とはそもそも嫌々やることがほとんどだ」という言葉をかけてくる人たちがいます。個人の被害を「労働」の枠組みに入れることによって、被害をないことにしたり望まない性的な行為だって仕事なのだから受け入れるべきだ、だって他の労働も同じように嫌なことをしているのだから。そういうことを言ってくる人たちがいます。だから、「”私にとっては”それは仕事でない」と言い返しているのです。いきなり一人で言い出した話ではないんです。

スローガンとして、「セックスワーカーにも当然人権がある」という意味で使われているはずの「セックスワークイズワーク」が、人権として性被害を訴えてもいいはずなのに、それを黙らせるような使われ方を一部でしている、という背景を無視しないで欲しいんです。こういうことがなければ、わざわざこちらだって「ワークと言わないで」と発言する必要性もないんです。

受けた側からすると、どこでその性暴力が起こったかは関係ない

私が大きく違和感を感じているのは、私が告発した性暴力のうち、多くは「被害」として受け止められているのに、セックスワークになると途端に「労働とはある程度そういうものだ」になるということです。

なんなら、映画界で起こった地位関係性を利用した性行為の強要や、グラビアにおける望まない露出だって、全て労働の中で起こった出来事です。どういう分けられ方をしてこういう扱いをされるのかがよくわからないのですが、私は全て「自分の人生の中で起こった、望まない性的な行為」という認識ですし、同じように受けた傷です。

確かにこれを性犯罪とかセクハラとか、そういう法律上のものとして捉えるときは「雇用関係があったのか」などなどの「労働かどうか」は大きく関係してくるとは思います。

ただ、そういう文脈でもないのに第三者が勝手に「労働とは」と言い、個人の性暴力を分類しジャッジするような行為は許されていいのでしょうか。自分にはこれが二次加害にしか思えず、なかなかセックスワーク論を支持している人との会話や関係性を保つことは困難だと感じています。

だって、これがセックスワークじゃないところでの性暴力だった場合、例えば仕事と一切関係のない場所での性暴力だった場合、「でも全ての行為が強要されたら暴力ですよね」と言いますかね。そりゃあ世の中にある全ての行為は、強要されたら暴力になることがありますよ。でも性被害を訴えている人にそんな声かけしなくないですか?

性的な行為の特殊性

中には様々な業務も性的な行為も同じくただの行為だ、とする人もいるようです。
しかし、私はそうは思いません。それは性的な行為に対しての自分の性規範がどうとかいう話では全くなくて、性暴力がわざわざ「あなたの望まない性的な行為は性暴力です」と定義されることも関係しています。

性暴力や性的同意って、「自分が望んだか望んでないか」「積極的同意か消極的同意か」がものすごく大切になってくる部分だと思います。例えばやっぱり、「ゴミ捨てしてください」と頼む時と、「あなたの身体を触らせてください」と頼む時では、同意の取り方は全然変わってくると思います。それはこの社会で生活している人が無意識・または意識的にやっていることだと思うし、両者を同じように取り扱った場合、ゴミ捨てに合わせてしまったらセクハラや性暴力になる可能性もあるし、身体を触るに合わせてしまったら何も物事が進んでいかない、という事態になったりもするのではないでしょうか。
ゴミ捨てにそれだけの同意を取ることは見習うべきかもしれませんが、「そこにあるゴミを捨ててきてもらいたいんだけど、積極的同意ではなくて嫌々だったらやらなくていいし、断ったことによってあなたの損害はありません」とするのは、それこそ現実の生活を無視していると思うんです。業務でゴミ捨て頼んで断られたら、労働時間内での常識的な指示としてそれは使用者として評価に反映してもいいことなのではないでしょうか。もちろんそこに過度な強要とか脅しを使った場合、身体的暴力や精神的暴力が伴っている場合はまた別ですが。(それは労働時間内の常識的な指示とは捉えられないと思う。)

ただ、性的な接触に関しては、「自分が望んでいるかいないか」ということや「積極的同意かどうか」で暴力と判断されることがある行為のはずです。

例えば映画界では、ラブシーンや濡れ場のシーンに対してインティマシーコーディネーターが使われることや、慎重に同意を取ることが推奨され始めています。

――改めて、インティマシー・コーディネーターとはどういった仕事なのでしょうか?

インティマシー(Intimacy)という言葉は、英語で「親密さ」という意味があります。インティマシー・コーディネーターとは、簡潔に説明すると、映画やドラマの撮影で、俳優がヌードになったり、キスシーンや疑似性行為を行うシーンで、俳優の身体的、精神的な安全を守りつつ、監督の演出意図を最大限実現できるようにサポートするスタッフです。

いつ頃この仕事が生まれたのかについては諸説ありますが、2018年に、アメリカの放送局HBOが制作した作品で、インティマシー・シーンがとても多いものがあり、その安全性のために導入されたのが、映像業界でのスタートといわれています。その後、#MeToo運動などが重なって、需要が増えたと言われています。

センシティブなシーンの撮影から俳優を守る専門家、インティマシー・コーディネーターとは  浅田智穂さんインタビュー

これをしていれば=健全な現場だった、というわけではもちろんないし、それだけでは解決できないこともあるだろうけど、まずは今性的な行為に関しては配慮がなされる必要があるという認識が共有されているからだと思います。

センシティブなことだから慎重になる必要がある、という議論がなされてきて性的同意だったり性暴力の定義だったり、このようなコーディネーターも必要とされるようになったのが性的な行為というものなのではないかと思うのですが、これがセックスワークになると途端に必要じゃないかのように、またはすでに同意を取れたようになっているのではないかと感じています。

私は何もセックスワークにだけその慎重さを求めているわけではありません。どんな労働でも、性的な行為を扱うときはきちんと同意を取り、慎重に進めていくことが必要だと思っています。

私が今例に出している映画界とセックスワークの大きな違いは、「始めた仕事の中で性的な行為を必要とするか」と、「そもそも性的な行為をすることが大前提の仕事」なのだと思うのですが、でしたらやっぱり、後者を始めるときに全く慎重になられない今の状況がおかしいのではないかと考えています。

私がセックスワークの世界に入ったきっかけ

以下は私の性被害体験なので、ご注意ください。

高校2年生のとき、コンビニに売っている情報誌でアルバイトを探していました。
名古屋でティッシュ配りのアルバイト(時給1000円)を見つけ、応募しやっていました。
そういう情報誌に載っているものなので、なんの疑いもなく応募したし仕事をしていました。

なんのティッシュ配りかというと、マンションの一室でマッサージをする、というものでした。今考えれば違法なお店なのでしょう。私は栄の街でティッシュを配ってアルバイト代をもらっていました。

ある日、いつものように出勤すると「ティッシュ配ってもらっても今日はマッサージする人がいない」と店長から言われました。そして、マッサージの方をやってみる?と誘われました。
マッサージはどういうふうにするかなどの講習もしてもらって、(とても簡単なものですが、性的なものではないです。)実際にお客さんがつくことに。そのお客さんからマッサージをしている最中に洋服を脱がされて、性器をコンドームなしで挿入されました。何が起こっているのか理解ができず、反応ができませんでした。身体がかたまってしまいました。

終わった後に涙が出てきて泣いていたら、「え〜、よしよし」みたいな感じで3000円を渡されました。
その後そのお客さんは店長とベランダで何かを話していました。私はその様子を、部屋の中から眺めていました。

そして、何事もなかったように談笑しながら部屋に戻ってきて、そのまま帰って行きました。店長からは、「あの子はそういう子じゃないからって言っておいたからね」と言われました。

大人たちが慌てることもなく謝罪することもないので、この行為が犯罪だと私は理解することができませんでした。その日も普通に帰ったし、誰かに話すこともしませんでした。誰かに話す必要があることだと認識できなかったのです。

その1ヶ月後くらいに、その店長がやっている高校生たちが働く風俗店に私は行き、仕事を始めました。理由はわかりません。お金に困ってたわけでもないし、親とうまくいっていないわけでもない。学校生活だってとても充実していました。知らない人と性的な行為をすることがすごく嫌なのに、嫌だと思いながら私はそこに通うようになりました。お店(マンションの一室です)についても、「どうかお客さんが来ないでほしい」という気持ちで過ごしていました。ものすごくチグハグな精神状態だったと思います。

今になって思うのは、自分の中であの出来事を日常に起こる当たり前の出来事にして、自分を納得させる必要があったのかなと思います。他人に勝手に自分の体の自己決定権を奪われることは当たり前のことなんだと自分を思わせないと、あの日の出来事をどう消化していいのかわからなかったのではないかと、大人になってフェミニズムを知った今の私は考えています。

高校生のこの出来事を自分がレイプだったと認識したのは、2018年、被害にあった15年後くらいです。

15年間ずっと私は、自分が望まない露出をグラビアでしてきたし、望まない性的な接触を断らずに我慢してきたし、望まないのに風俗で働き続けてきました。とにかく自分が望まないところに自分の身を置くような人生を送りました。でも、そのときは一体何が自分の中で起こっているのか全く認識することができませんでした。フェミニズムやら性暴力・性被害やら、そんな言葉に触れる機会もありませんでした。今みたいに「セックスワーク論」とか、「セックスワークイズワーク」とかツイートしている人が自分の生きている世界に入ってくることは一度もありませんでした。

こういう状態で始まって継続されてきたセックスワークを、「でも仕事ってみんなが好きな仕事をしているわけじゃないから」ということにしないでほしい、と言っているんです。「自分で主体的に選んだ仕事」だと言わないでほしいです。

当時の私は、信じられないかもしれないですが本当にこれ以外に選択肢がないと思い込んでいました。
性被害を受けてから常に不安な気持ちが自分を焦らせるようになって、そこに社会的な「風俗って楽なんだろう」という偏見も刷り込まれて、風俗の仕事すらしんどいと感じている自分がそれ以外の仕事ができるとも思えなかったし、その中で新しく性被害を受け続けることになるわけで、自分に人権があるなんてことは全くわからなくなっていったんです。

今、Twitterなどで私のこのブログにたどり着くことができている人は、どうか自分とは違う世界線で生きている人間のことを想像してほしいのです。風俗やグラビアの仕事をしていたとき、きっとこのブログを読んでくれている人たちとどこかでかち合うことはなかったと思います。その時期の私の存在を、皆さんは知っていますか?多くの人が知らないと思います。それだけ、本当に違う世界で生きてきたような感覚なんです。

本を読めたり、こういう社会問題が存在しているということに気が付けること、それを解決していこうと様々な知識を得ることができること、「フェミニズム」「ジェンダー」「人権」「労働者としての権利」というものを知ることができる環境を、当たり前だと思わないでほしいんです。

「労働」とは

また、「労働」というものについても考えてもらいたいのは、私にとって労働と日常はとても曖昧なものだということです。それは今もだし、セックスワークに身を置いていた時期もそうです。どこからどこまでが労働で日常なのか、はっきりしない生活を送っている人間もいます。きちんと雇用されていたり、正社員を経験している人にはもしかしたら理解し難い環境なのだろうか、と思います。

私が最初にレイプされた時の仕事だって、仕事と言っていいのか。もちろん雇用関係はないし、そもそも高校生にそんなことさせて違法だろうし。現金でお金をもらったら仕事なのかとか、じゃあ恋人からお金をもらったら?そういうものもはっきりとした定義がない中で、さらに曖昧な環境で起こった私の性被害を勝手に「それは労働」「労働じゃない」と分類してジャッジするのはやめてもらいたいんです。あなたたちにとってそれは研究の対象だったり論を成立させるためのものだったり、理想の世界を作るために必要なのかもしれないけど、私にとっては受けた暴力の話なんです。どうか今、「性暴力の話をしている」ということを忘れないで話をしてもらいたいんです。

もちろん、性被害にあった全ての人がこうやってしんどい思いをしながら仕事をしているんだ、なんて言っているわけではありません。私個人としては、例えば今の知識を得た状態での、それに選択肢がある状態で嫌なセックスワークをすることは、本人の選択と言っていいのではないかと思います。(それでも、人によっては暴力になり得ることなのでケアが必要なんじゃないかと思いますが)
でも、当時の私はそれが暴力だとかそんな認識なく、自分がどんな状況なのか何もわからないまま洗脳のような状態でいたし、Twitterではそうやって当時のことを振り返る人が発信をしていると思います。洗脳っていうのは、何も大それたものではなくて、例えば「女性はヒールを履かないといけない」と思い込んでいることとか、そういうレベルの、「自分にとって当たり前のこと」を言っているんです。そういうレベルで私は「風俗で働かなければいけない」という認識すら自覚しないまま、当たり前のように自分にそれを課していたのです。だけど、そういう話を黙らせるかのように「セックスワークイズワーク」を使う人が後を立ちませんし、きちんと批判されずにいるのではないでしょうか。

セックスワークを労働として捉え、労働環境を改善したい、そうすればみんなが健康に働けるだろう。それはもちろんその通りです。しかし、労働環境をよくするにはまず、これまで起こってきた被害を正しく認識しなければいけないのではないですか?

男女平等にして、性暴力がちゃんと裁かれるようになって、貧困も無くなって、そうすればセックスワークも安全になっていくんだからそちらから正していくべき、それは確かにそうだし、そういう運動だってしています。が、それだと当時の自分のようにこぼれ落ちる人間がいるんです。今被害に遭っている可能性のある人を見捨てないでほしいんです。
そのためには、まず被害の声を「全ての労働とは暴力性を孕みます」と言って黙らせることをやめて、正しく把握することが本来必要不可欠のはずです。

性被害を受けた人が自傷行為のように働き続ける、性暴力を受けにいく、という他の労働ではなかなか起こりにくいことが起こるんです。労働ならば、その仕事内容やリスクに合わせた決まりを決めることが必要なのではないですか。

労働者であるならば、自分が被害に遭っていなくとも、自分のいる業界でもう同じような被害が起こらないようにしていく義務があるのではないでしょうか。それはセックスワーカーだって同じことだと思います。皆さんの中で、今働いているセックスワーカにー対する甘さというか、労働者や大人としての義務は放棄してもいいような甘やかしがないか向き合ってもらいたいし、過去に働いていたワーカーの被害を、そのほかの性暴力被害者の訴える被害より軽視したり、「セックスワーカーをするような人が訴える被害」という見方をしていないかも疑ってほしいです。

やっぱり感覚でしかないので申し訳ないですが、私がグラビアをやっていたことや学歴がないこと、研究者や専門職についていないことを、どこかで下に見ている人っていませんか?私が自分の体験や知識から何かしらの論を言うことに、どこか見下しや「自分の方が知識がある」と思っていないですか?無意識なものでしょうし、私もそれに対して明確な証拠が出せるわけではないです。

ただ、「そうやって言ってるじゃん」ということを学者や研究者、作家などがいうと「確かにそうだ!」となることが少なくないと思います。今話しているようなことだって、私は結構前から言ってきたけれど、初期はもっと「何おかしなこといってるんだ」としか見られなかったと感じています。そういう内省は、私に対してだけではなく様々なところでされることを望みます。

「トランスジェンダー問題」4章を監修したSWASH

最後に、「トランスジェンダー問題」という本の第4章のセックスワークに対する批判から始まったのが今話していることのきっかけではありましたのでその話を。確かに私はトランスジェンダー当事者ではないので、この本がトランスジェンダーの本ということを踏まえると何かを言う権利はないのかもしれないです。

ただ一つ、どうしても看過できないことは、この章の監修をSWASHがしていることです。

以前にも書きましたが、要友紀子さんには私はかなり初期の段階(#KuToo運動を始めた頃)で当事者であること、高校生の時にレイプされたことから風俗で働き始めたことを伝えましたが、その後岡村隆史さんへの署名を始めたときに「当事者でない人がこういう署名をしている」を嘘をつかれそれをもとに批判をされました。
それ以外にも当事者かどうかわからない人を「非当事者だ」と言って黙らせてきたこと、畑野とまとさんが仁藤さんについてのデマニュースをそのまま曲解しツイート、指摘されても削除せずそのままのこと、先日も「トランスジェンダー問題のセックスワークの章に怒っている人は当事者ではない」と、わからないはずの断定をしたこと(しかもこの時点で畑野さんは本を読んでいなかった)、また昨日のツイートで「ワークではないと思っている人の個人的な気持ちなどどうでもいい」と発信するなど、論の前段階の話で相当問題があるのではないかと思っています。どうでもいいって、ワークではないと言っている人は性暴力だから、ワークではない、と言っているんですよ。性暴力をどうてもいいって言っているの、大丈夫なんですか?こういうことがあり、翻訳にも曲解があるのではないか、と心配になる人がいるのは当然のことだと思います。

トランス差別をする人のツイートは、いくら単体で正しいことを言っていてもRTできません。それと同じように、彼女たちがいくら正しいと思われることを言っていても、その根底に何かを嘘をついたり曲解したりすることがあるのならば、その正しいことすら本当に文脈含めて正しいのか、わからないと思っています。

そういうことで私はトランスジェンダー当事者ではないですが、セックスワーカー当事者として同じようにシス女性のセックスワーカーにも大きく関わってきているSWASHの監修している本のことは批判なくいることはできないと思いました。

彼女たちがしてきた「非当事者認定」は、したくもない公表を招きます。私はできれば風俗で働いていたことなんて言いたくなかったです。だって働きたくて働いていたんじゃないし、被害に遭いっぱなしだったんだもん。そんなの顔と名前を出して言いたいわけないじゃん。これから先も芝居をしたいけど、イメージでオーディションすら受けられないことだって出てくるでしょう。(着エロやヌード、AVに出た人は受けられないオーディションがたくさんあります。それに風俗で働いていたことも言ったらそりゃあもうイメージとして最悪でしょう。そういう差別があることも忘れないでほしい)

いくらセックスワークイズワーク、私を差別するな!と言える権利があると知ったからって、現実世界で風俗で働いていたと知られたら今だってどれだけ差別されるか、想像すればすぐわかりませんか?

自分が当事者だと言えなければ議論のテーブルに乗れないのは、とてもおかしなことだと思います。特別当事者だと表明しているわけじゃない、すなわち当事者でないと判断される研究者の人たちは自分たちの意見を言えるのに。

ここにたどり着けないし、当事者だと自分が言えないような当事者だってたくさんいて、そういう人たちが被害に遭っている、遭い続けている可能性を考慮して議論をしてもらいたいと思います。

セックスワーク論に抗議している人、被害に遭った人は、自分のような思いをしながら働く人がもうこれ以上増えてほしくない、そういう気持ちの人が多く、なにもみんながみんな廃止を希望しているわけでもないし、性風俗自体を否定しているわけではないです。廃止してほしいと言っている人だって、それだけの被害を受けた人をその目で見てきて支援してきたから、ということだってあるでしょう。

セックスワーク論に賛同したくても、当事者じゃない扱いをされたり性暴力として取り扱ってもらえないから話を聞くことが怖い、と感じている人もいるかと思います。私はそうです。ちょこちょこ自分の被害を被害と見做さないような言動をされると、やっぱりもう話を聞くのが恐怖だし友人関係だって続けられません。

どうか、通常皆さんが性暴力を受けた被害者へとっているものと同じ態度で、セックスワークをする中で性暴力にあった人へ接してください。それは、例えば「相手の話をまずは聞く」「寄り添う」「あなたは悪くないと伝える」、そうものであったはずです。皆さんにとっては「セックスワークの中で起こったこと」だったとしても、その人にとっては「一つの性被害」だということ、忘れないでほしいです。

※2022年11月3日「訳者の方はセックスワークについては詳しくないとのことで、SWASHに監修を頼んだとのこと。」という部分を削除しました。翻訳において監修が入ることは当然ですし、監修を依頼したことを批判していると誤解されないためです。私が批判しているのは、書籍の内容や訳者ではなく、SWASHの方たちの姿勢についてです。
ただ私個人的には、普段ツイートをRTする時や仕事で何かをお願いする時は、その相手が普段どんな言動をしているのか、など慎重に調べて関わっているつもりです。それはトランス差別をする人だけではなく、女性差別を繰り返す人や事実ではないことを用いて他人を批判する人などにも適用されるべきことと考えています。

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