差別発言の謝罪と、皆さんは差別をしていませんか?という問いかけ。

まずはじめに、謝罪させてください。
先日Twitterで、トランスジェンダーとノンバイナリーの方の就業差別を比べるような発言をしてしまいました。
差別の被害に差などないこと、少し考えればわかることでした。

私の軽率な発言に傷つき、ショックを受けた方も多いと思います。この場で改めて、謝罪いたします。
本当に申し訳ありませんでした。

そしてここからは、皆さんが私にしてくれたように、私からも指摘をさせてください。差別発言への謝罪をしたブログと同じ場所で書くことを迷いましたが、私は全ての差別がなくならなければいけないと考えているし、全ての判断が公平であるべきと考えています。だから敢えて、同じブログで伝えたいと思います。

皆さん、セックスワーカーが働く中で受けた様々な種類の性暴力の被害を矮小化したり二次加害し、「スティグマを植え付けるな」「セックスワーカー差別だ」と言って黙らせるなど、他の職業での性暴力被害と差をつけて扱っていませんか?性被害にあって反売買春を訴えるフェミニストを排除していませんか?

つまり、差別をしていませんか?

差別をして、被害当事者や被害を受けたことから売買春に反対している人たちを傷つけてはいませんか?
これはトランスジェンダー・シスジェンダー共通で起こっていることだと思います。

一連の出来事について、自分の思うこと

今回、「トランスジェンダー問題」という書籍について、葭本未熾さん https://twitter.com/shoujo_toshi という方がTwitterにて批評を書きました。

その内容は、トランスジェンダーの中で反売買春の人たちの存在が排除されてしまっている、という趣旨のものであったと私は捉えています。セックスワークや売買春についてはまだ答えの出ているような話ではなく、いろんな立場の人がいるのだから、翻訳は丁寧に脚注をつけて多角的に検証されるべきものであったのではないか、と、明石書店の姿勢を問う批評です。
なぜかというとこの本は、誰かの個人のエッセイではなく、トランスジェンダーの人たちへの差別をなくすためのこれからの教科書となり得る書籍であるからだと思います。

葭本さん自身、のちにノンバイナリーであることを公表しましたが、この本を楽しみに待っていた一人であると思います。今後トランスジェンダーへの差別をなくすための指針になるような、そんな存在の本であると認識し読まれたと思います。

そこで、セックスワークについて訳者もあまり知識がない中で、特定のひとつの団体の人からの与えられた情報で翻訳してしまうこと、私も同じように危機感を覚えました。その団体に所属する人たちが、実際に日本で起こっているセックスワークにおける性暴力の全てを認識しているようには思えない、むしろそこは見ない振りをし続け、更には被害にあったという当事者の声を黙らせてきたことに大きく加担してきたと思うからです。

トランスジェンダー当事者に「反売買春フェミ」は存在しないのか

今回、トランスマーチで「反売買春フェミを踏みしだく」という表現がされました。私は、「踏みしだく」という言葉を批判するのはトーンポリシングになるのではないかと考えます。差別をされ、怒っている人たちが使う言葉が強くなるのは当然です。

ただ、「反売買春フェミ」は、トランスジェンダー当事者の中にもいるのではないですか?いや、確実にいます。いないと考える方が不自然です。

確かに反売買春を目指す人たちの中には、性の規範への偏見や嫌悪から反対している人もいるでしょう。しかし実際にそこで性暴力が起こっているから、ということも多いです。その人たちを一緒くたにまとめて「差別」と判断し、これまで被害者の声を真摯に聞いてこなかったそのうえで、踏みしだく、ということは、それはやっぱりセックスワークの中で起こる性暴力の軽視としか私は思えません。

いやいや、被害ではなく売買春自体をなくせというのは差別だろう!と思われるのかもしれない。でも、被害自体が全く聞かれない状態で、本当に被害をなくそうとしているとは全く思えないんです。そんなんだったらなくなってほしい、そういう気持ちの人だっている。

そもそも、「性的同意をお金で買うこと」自体に色んな意見があるのは当然のことだと思います。それなのに、セックスワークでの被害を告発したり、在り方に疑問を呈すると「セックスワークへの差別だ、スティグマを植え付けるな」と黙らされる。こんな空気ができあがっていませんでしたか?こうやって、セックスワーカーの性暴力には正面から触れられず、ないことにされてきていませんか?問題なのはこの、「何かしらおかしいと思うことを提起すると、差別だと言われて糾弾されること」だと思っています。私がフェミニズムの活動をするようになって、多くのフェミニストたちは性売買について、意見を言うことができなくなっていたと感じています。なぜなら、「当事者でないやつが口を出すな」と言われるから。

私から見えるTLには、この「反売買春フェミを踏みしだく」の発言に対して、「こういうふうにセックスワーク論が踏み絵のようになっているから、トランスマーチに参加出来ない」というトランスジェンダー当事者の方の意見を多々目にしました。しかし、その多くは鍵アカウントの人達です。表立って言えない空気がネット上にあるからだと思います。

私、トランス差別に反対している人やトランス当事者はセックスワーク論支持者が多くて、いったいなんでこんなに親和性が高いんだろう?と思っていたんです。でも、もしかしたらトランス差別に反対している人で反売買春の人は、この空気の中それを表明できないからなんじゃないかと思いました。表明しないからいないものとして考えていた自分に気がつきました。

葭本さんが「トランス当事者本人と会ったのか」というようなことを言っていたとき、「そんな特定の当事者と会ったことで何か判断できることってあるのかな?」と思っていた自分がいました。だけど違う、Twitterじゃないところに行けば、Twitterでよく見られるセックスワーカー支持者のトランスジェンダーだけが当事者ではないという当然のことがわかるということではないかと思いました。Twitterや活動家の人たちの意見が、まるで総意かのように感じていました。自分の中の偏見です。どこかで、トランスジェンダーの人はみんな、セックスワークをすることに抵抗がないのだろうか、などと考えてしまっていたと思います。

いやでも、同じ人間なので当然やりたくない人や傷ついた人だっているのではないか。その視点を今回やっと持つことができました。そしてその人たちは、それを表明しづらい環境が作られているとも思いました。というかそれは全ての人がですよね!反売買春っていうとめっちゃ叩かれるから、みんな黙っている。それってよくよく考えたらやばくないですか?私は反売買春、ではない立場だけど、おかしいと思う。

こういうことが、今回の「トランスジェンダー問題」という書籍の中でも行われてしまっていなかったか、考える必要があると私は思います。それとも、反売買春を思うトランスジェンダーの当事者は、当事者ではないのでしょうか。

トランスジェンダー当事者でセックスワークの中で被害にあった人の存在、マイノリティの中にいる、さらにマイノリティの存在を無視するな。そういう、ノンバイナリー当事者の葭本さんから、差別への指摘であったはずです。

差別への指摘だと認識していますか?そしてその背景に性暴力があることも。

しかし皆さんは、この葭本さんの本へ批判を「特段取り上げるべきない、個人的なことでわざわざ騒いでいる」と判断していませんか?むしろ、せっかく出た本への攻撃と捉えている人もいるかもしれません。
葭本さんが本の感想を書いてから、本当にたくさんの「葭本さんへの態度の批判」、つまりトーンポリシングを目にしてきました。
葭本さんの口調や態度、「勉強しろという偉そうな態度」。これらを「フェミニストとしての振る舞いとして許せない」と言った人もいました。たった一つの章を殊更取り上げて騒いでいる、と。

でも、これ葭本さんは性的マイノリティのセックスワーカーが受ける性暴力の軽視や差別を訴えているんですよ?それを無視したような批判がたくさんなされて、「勉強しろ」と言われるのは当然のことではないですか?強く怒っているのは当たり前のことではないんですか?「たった一つの章」?一つの章として語られるほどのテーマであるセックスワークにまつわる話です。当事者や当事者に近い人間、性売買に反対している人間がここに着目するのは、人権の問題として当然ではないですか?

私は、沖縄の基地問題も、トランスジェンダー差別のことも、障害者差別のことも、みんな「勉強しろ」と当事者・非当事者関係なく言っているのを聞いて、その通りだと思って自分なりに勉強を続けています。それを見て、「勉強しろだなんて偉そうだ」と思ったことは一度もありません。もし私が相手に対して偉そうだと思うことがあるならば、自分がその相手の訴えている問題を「相手の個人的な些細な出来事」として捉えているからだと思います。

一連の流れの中で、葭本さんから差別的な発言があったかもしれない。それの指摘が出るのは当然でしょう。しかし、皆さんは葭本さんの指摘する差別や排除について、受け取り検証しなくても良いのですか?良いのならなぜですか?

誰かが差別を訴えたときにすることは

私は、誰かが「これは差別ではないか」「排除されているのではないか」と言っているのなら、まずはその話を聞くことが一番大切なのではないかと思って今日まで活動をしてきたつもりです。そして、それが差別か差別でないか、の判断は、言われた側が簡単に「それは差別ではないですよ」と下していいものではないと思います。ましてや、「誰も取りこぼさないものなんてない」と開き直るものではなかったと思います。

葭本さんが本に対しての批判・感想をツイートしてすぐ、葭本さんをトランスヘイトだと認定するようなサイトに名前が載りました。そして実際、葭本さんを差別者であろうという扱いをして、葭本さんの話を聞こうとしなかった人が本当に多いと思います。
きちんと批判の内容を精査せず、批判の姿勢ばかりを取り沙汰した。その結果の葭本さんの様々な態度です。怒って当たり前だと私は思っているし、その中で暴言が出ることだってあると思います。だって、あげた声を押さえつけようとずっとされているんだから。
実際に葭本さんに批判している人の多くが、堂々と「経緯は追っていません」と表明していました。びっくりしています。何がことの発端で、その発端は一体どういう性質のものであったかの検証もなく、一部分だけを見て葭本さんを一方的な加害者とし謝罪を迫る。ハラスメントをしたという。ハラスメントって、そのようにTwitterで一部しか追えていない人が認定するようなものでしたか?

私はハラスメントとは、二人の関係性がどういうもので、どういうことの流れでこの話になっていて、そういうものが全て明らかにされて判断されるものだとばかり思っていました。だから私は、個人の名前を出して相手の加害やハラスメント的な行為を告発するときは、それまでの経緯を丁寧に発信してきました。そして、相手にも一連の流れを説明するようにも求めてきました。
私だけの一方的な主張でハラスメントジャッジがなされると勘違いして欲しくないし、私が嘘をつくわけがない、というような思い込みを持って欲しくないし、何事も事実に基づいて判断されて欲しいからです。

今はどうですか?葭本さんを責めている全ての人は、自分の価値観だけで葭本さんが重要な告発をしていないと判断し、やりとりの全ての経緯を追わず、自分が確認した言動だけで葭本さんだけを加害者だと決めていませんか?また、それがTwitterで賛同する人やいいねの数、賛同する人の肩書き、Twitterに溢れる空気で決定されようとしてはいませんか?

私は今回の一連の出来事は、葭本さんの表現の自由が奪われそうになったことだと思っています。葭本さんは自由に本に対して思ったことを書きました。そしてそれは、マイノリティの中にいるマイノリティの排除への批判でした。そこにトランスジェンダーの人たちを差別するような発言はなかったはずです。

スペースで「葭本さんのせいで、この本を肯定したらいけないかのような空気ができてしまった」と言われていましたが、違いますよ。この本の一部を批判した葭本さんが悪かのように散々言い広められたんじゃないですか。葭本さんはずっと、「本を読んで、ご自身の感想を持ってください。」と一貫して言い続けていました。

私の被害の話をしたいのではない。シスジェンダーのセックスワークでの被害を巡る様々なことと同じことが、トランスジェンダーでも起こっていませんか?

そして、「マイノリティの話なのに石川さんは自分の被害の話を被せて話を奪っている」という人たちへ。
ずーーっと言っていますが、私は私の被害がどうのこうの言っているわけではありません。シスジェンダーですら、セックスワーカーの被害は表に出てきづらいんです。だから、さらに被害に遭いやすい性的マイノリティがいて、そういう人たちから声があげづらいことくらい想像つくでしょう。そういう話をしているんです。シスジェンダーのセックスワークでの被害を巡る様々なことと同じことが、トランスジェンダーでも起こっていませんか?と言っているんです。

いつも思うのですが、被害を話す当事者のことを特権だと思っていませんか?「声を上げられる特権がある」と言われることがあります。本気ですか?自分が風俗で働いていたことを全世界にインターネットで公表して、その被害の内容を自分で振り返り追体験し、それを文字にし、どこの誰かも知らないところで読まれることが本当に特権なんですか?

私が風俗で働いていたことを公表したのは、セックスワークでの被害を巡る議論の中で、声をあげると「非当事者が口を出すな」と言われるからです。当事者でないと発言できないような空気が確実に作られてしまっていた。だから仕方なく話したんです。簡単なことではなかったし、言いたくなかったです。性被害にあってやりたくなかった仕事をしていたことを、会ったこともない人にまで知られるなんて。でも、そうしないと被害者が語る被害として認識されなかった。だから言いました。言わなくてもどんな被害があるかをきちんと調査したり、匿名で声を上げた様々な人たちの声を潰していないなら私が語る必要はなかったと思います。それできちんと被害がなくなるような方向でセックスワークが整備されていくならば、私は自分の被害を言わなかった。

でもそれは無理だった。誰かが匿名で被害を訴えた時、「スティグマを植え付けるな」「セックスワークを差別するな」と黙らすこの風潮に、きちんと「セックスワークでの被害を訴えると差別となるのはおかしくないですか?他の職業では性暴力を告白してもこんなこと言いませんよね?」となっていたら、わざわざ自分が当事者として被害を話す必要はなかったと思っています。

これも何度も書いていますが、私の被害は、性暴力にあった影響が癒やされることなくセックスワークに従事し続けてしまった、「トラウマの再演」が主なものです。

トランスジェンダーは、シスジェンダーよりも性暴力の被害に遭うことが多いと聞いています。過去の私のような状態になっているトランスジェンダーの人がいないと考える方が不自然だと私は思います。でも、今言われている「非犯罪化」では、これは防げない。だって、そもそもこの被害の現状が全く認識されていないんです。私には都合よく見ないようにしていると感じられます。今は私の過去の状況は、「自己責任」と切り捨てられています。主体性を奪われた状態で選択されたものを、「それは女性を主体性のない存在とみなしている差別だ」と言われています。そんな認識の中で行われる非犯罪化に抗議したい人がいても当然だと思います。

いつまで当事者の被害の語りをあてにし続けるのか

で、これをこれからも続けるつもりですか?いつまで当事者に被害を話してもらうこと待ちでいるんでしょうか。もちろん、当事者が当事者として要望を言うことなど、当事者抜きでの議論はダメだというのもわかります。

でも、被害を当事者に告発させないと問題を解決していけないような状況は、とりわけセックスワークのような、カミングアウトさせることによって本人の社会的評価への影響がわかりきっているような物事に対する問題解決は、本当にこのままでいいのでしょうか?

じゃあ今回の「トランスジェンダー問題」に関して、反売買春のトランスジェンダー当事者が声をあげるにはどうすればよかったのでしょうか。すでに出来上がっている、「トランスマーチで反売買春フェミを踏みしだく」という空気の中でこれに抗議するには、自分の当事者性や性暴力、セックスワークを経験していることなどを開示しての抗議でないと難しいと考える人は、私のようにいるのではないでしょうか。

そんなことさせたいですか?トランスジェンダーでセックスワークで性暴力被害に遭っていたり、反売買春の人たちがいるかもしれないなんて、少し考えたらわかりませんか?
まさか、「あなたの望まない性的な行為は性暴力です」という定義に、トランスジェンダーやトランスジェンダーのセックスワーカーは当てはまらないとでも思っているんですか?もちろんシスジェンダーよりも、社会的な見られ方、求められ方によってセックスワークをや性的に見られることを望むことはあると思います。それでも、「望まない性的な行為」に心身が傷つくことがあるのは、そこにお金が絡んでいようとなかろうと、どんなジェンダー、どんな職業の人でも関係ないはずです。それを当事者に当事者だと公表させ被害を事細かに話させるまで、黙って何もせずにいるつもりなのでしょうか。

私は声をあげて性暴力の被害を告発した当事者として、非当事者がもっとなんとかしてくれていたら違ったのに、と強く思います。特に映画界のことを、人名を上げて告発した時は、「なんで今日まで誰もなんとかしてくれなかったんだよ」という気持ちが一番です。だって、見てた人、気がついていた人いっぱいいたじゃん!なんで私が今顔を出して、名誉毀損の危険を冒してこんな性暴力の被害のことを事細かに話さないといけないのか。もちろん、自分で選んだことですよ。だけど、それを特権かのように語られることは許せません。

だから私は、今回当事者を矢面に立たせずに抗議をしようと徹底していた葭本さんたちに強く共感しました。思うことが一致した故の私の行動です。葭本さんを支持しているからとかじゃない、たまたまやるべき行動と思っていることが同じだっただけです。

皆さんにお聞きしたいです。
今回葭本さんが書いた本の批評が、別の人物、例えば
1、トランスジェンダー当事者と公表していて、
2、セックスワーカー当事者と公表していて、
3、その中で被害に遭ったと公表していて、
4、その被害を事細かに話していて、だから自分は売春に反対している、
5、そういう人が読んで、「セックスワークの非犯罪化はトランスジェンダーの中心的な教義だ」と書かれていたことにすごく驚きました、もっと被害者の視点や国際的な背景で違うものが多角的に検証されるべきだったのではないでしょうか、というもの

だったら、皆さんは「あなたの意見で他のトランスジェンダーを傷つけてもいいのですか?」とか、「誰もこぼれ落とさないなんて無理」とか、「きちんと本のどの箇所か引用するのが本への敬意なんじゃないですか、あなたの批評も本も読んでないけど」なんてなりましたかね?

葭本さんはこういう負担を当事者にかけさせないために、(後に本人もノンバイナリーだと公表することになりましたが)あの立場で必死に声をあげていたのではないですか。

それを少しも聞こうとせず、「わーわー文句を言っている」「自分たちのお仲間たちを守るために」と言って個人的な問題と切り捨て、態度や振る舞いをジャッジしている人たちがとても多くて私はげんなりしました。自分たちがやられたら絶対怒るであろうことを、他人にはこんな平気でやってしまうんだと、驚いています。

差別をしている、していないってそんなに簡単に判断できることなのでしょうか

今私は、これはジェンダー関係なくセックスワーカーのみ性暴力(望まない性的な行為)にあった時の扱いが違うのではないか、という差別や、反性売買のトランス当事者の排除を訴えていますが、これが簡単に「はい、差別ですよね」「いいえ、差別じゃないですよね」と判断されることではないと思っています。

ただ、こういう声が上がったときはみんなで検証されるべきものと思っています。その結果、差別じゃないという結論になることもあるかもしれない。だけどそれはそのプロセスを踏んだ上でのものであることが必須であるはずで、昨日今日で「いいえ、それは差別じゃありません」と言えるようなものではないと思います。

傷ついた傷ついてないで言えば、私だってずっと傷ついてますよ。最初は勝手に当事者ではないということにされて、「一回おっさんの汚いちんぽでも舐めて働いてみろ、クソフェミニスト」みたいなことを言われたり、自分の被害として話しても「すべての労働には強制的な面があります」とわざわざ言ってこられたり。こんなこと、他の職業で自分の性被害やパワハラの被害など話したときは言われないのです。被害の軽視をされているし、そういうものをずっと無視してセックスワーク論を支持している人の言動を目にするのは、自分にとって非常に負担が高いことです。

AV新法反対のデモで被害を受けた人たちがそれを訴えるスピーチをしている人たちに向かって、その声をかき消すかのようにシュプレヒコールをする抗議デモや、その抗議デモを支持した人やその人が書いている記事や本、デモのツイートを拡散した現代書館など、私は接するのが怖いと常に感じています。だって性暴力被害の軽視じゃないですか。だけど子どもじゃないからわざわざそんなこと言わずに、ミュートにしたりブロックしたり見ないように気をつけたりしていました。

セックスワークで性暴力にあった人たちは、そのように感じている人が多いのではないでしょうか。それは許されるのだろうか?私は、トランス差別をする人たちと同じように、セックスワークで被害に遭った人たちの被害を軽視したり黙らせる行為に加担している人も、批判されるべきだと思います。それは職業差別だと思うから。

今私たちが知っている差別だけが差別ではないはずです。フェミニズムが長い間トランスジェンダーの人たちを排除してきてしまった歴史があるように、今この瞬間だって、別の排除されている属性があるかもしれないと常に疑うことは必要なことではないでしょうか。そしてそれに気が付くたびに軌道修正していくべきものだと、私は考えています。

これはどんなものでも言えることですが、誰か一人の書いた本を、特に国が違う本を、受け取ったものそのまま正解だと思い込み自分の思想のようにしてしまうことはとても危険なことだと思います。

葭本さんはずっと、「本を読んで自分で考えてください」と繰り返し言っていました。皆さんは葭本さんではないのだから、自分の感想を持つべきだと。読んだ上で好意的に見るならそれでいい、批判があるならそれも良い。だけど読むときに、常に疑いながら多角的に考えながら、どういう背景でこの本が訳されたかなども考えることが必要で、それを伝えているんです。

それを葭本さんは、「4代目左翼だから、自分は親の思想を疑うことなく受け取ってきてしまい、洗脳されて生きてきた。そういう反省がある」という趣旨で自虐的にその言葉を使いました。それがなぜか血統主義とか、血統自慢のように受け取られていて笑いました。これ、ずっと話を追っていればわかることだと思いますよ。

皆さんは、「トランス差別はダメだと言われているからトランス差別に反対している」わけではないですよね?そこに差別を感じている当事者がいて、実際に違う扱いを受けていて、排除されてしまっている。それは平等ではないから、トランス差別をしないと反対しているのではないのでしょうか?それって、誰かに言われたからそうしていることではないですよね?都度都度自分の頭で考えていますよね?

それとも、有名なフェミニストや学者の方がそう言っているから、従っていますか?そうではないと信じたいです。もちろん、研究者の方達が作ってきてくださったものはとても貴重です。だけど、いつでもそれが必ずしも正しいわけではないはずです。そこと現実に乖離があるのだったら、その時その時自分自身の頭で判断し続けることが大切なのではないですか。今ある「正しいこと」とされていることは、いつでもいつまでも正しいと確定していることではない。

葭本さんが四代目左翼と自分を自虐しているように、私は3代目創価学会で、同じことを思うことがありました。池田大作を疑わずに信じきっては絶対にダメだ!この人たちは、池田大作が何かを間違えた時、きちんと自分の頭で考え行動できるのか?そう考えたことは、私が創価学会を信仰し続けていない大きな理由です。自分の思想を誰かに任せちゃ絶対にだめだ。

なぜか葭本さんに「本のどの箇所を批判しているのか引用するべきだ」という批判がきていますが、Twitterに本の一部を引用するって、著作権的にオッケーでしょうか。葭本さんは本を全体を読んでその文脈やあとがき、脚注全てを総合的に見ての感想で、「第4章の話」ということは最初から言っています。一部って、どこ?第4章を全部引用しろとでもいうのでしょうか。

そもそも、誰かが本の批判をするときに細かい引用を求めることなんてありますか?Twitterで。みんな好き放題感想を書いていると思うのですが。それに葭本さんの言っていることは、トランスジェンダーのセックスワーカー被害の軽視に対しての指摘です。性暴力の話をしているということは理解されているのでしょうか。

葭本さんは、本の一部を引用することを、本への敬意が欠ける行為であると認識しているようでした。(お話しした感じ私はそういうふうに受け取りました。)葭本さんが一部引用し載せることによって、多くの人が本を全部読まずにわかった気になってしまう。葭本さんが感じた感想を自分のものだと思ってしまう可能性がある。それでは本は売れなくなってしまうし、「自分の感想」ではないのだから、ずっと「本を読んでください」とずーーーっと伝えていました。

葭本さんに本の引用をしてもらいたいと思った人は、自分が一体何を求めているのかわかっていますか?葭本さんの感想は葭本さんの感想です。それに、本はあなたではない。たとえ「トランスジェンダー問題」が多くの人にとって希望的な本であっても、それは必ずしも全ての人の教科書ではないし、絶対的な正解でもない。誰かがその本の一部を否定したからといって、そんなの属性や個人の否定ではない。もしこの本が絶対的に正しくて批判することは許されないと思っている人がいるのなら、それはとても危ないことだと思います。

セックスワーク論、性売買のぜひについて、議論くらいさせてくれよ

確かに葭本さんが話していることは、今まで人が踏み込んでこなかった部分だと思います。反発が起こるのはわかる。それが非当事者(と思われる人)からのものであれば尚更です。

だけど、例えば私だって、「フェミニズムの教科書」とされるような本が出版されて、ワクワクして読んで、セックスワークに関することが一つの章としても書かれていて、その中で被害当事者の視点が圧倒的に足りない上で「ということで、セックスワークの非犯罪化はセックスワーカーの中心的な教義です」とまとめられたら、えー!ちょっと待ってよ!かなり複雑な被害のことが全然足りていないじゃん!クソだよ!なんでこれが教科書のようにされてしまうんだ!と危機感を持ちますよ。

だってセックスワーカーの受けている性暴力の被害の軽視じゃないですか、被害者の視点がないなんて。出版社に抗議だってするかもしれない。Twitterでその視点の足りなさを指摘しますよ。そのまま「そうなんだー!」と受け取られたらとても困るから。それはそんなに非難されるようなことでしょうか?それを、声をあげられない当事者のためにすることはおかしなことでしょうか?

「自分がマジョリティになった時はわきまえて慎重に行動するべきだ」と言っていた方がいましたが、だったら自分がこの話がシスジェンダーの問題でずっとあった時点で、マジョリティとしてできることをわきまえて慎重に、でもして欲しかったです。ずっとうっすらと多くの人が少しずつおかしいな、と思い合っていた問題ではなかったですか?

セックスワーカー論を支持する人たちの話をするときに多くの人が、「うーん、そうなんだよね。でも怖いから言えなくて・・・」ということを私は耳にしています。議論を避けて、被害を黙らせられる光景を見て見ぬふりをしてきた人、多くないですか?それって結局、セックスワーカーの性暴力被害なんて後回しでいいとか、自分たちとは関係ない世界の話だ、という気持ちがあるんじゃないのかとも思います。やっぱり他の職業での性被害の話になっても、そんなふうに思うことはないと思いますもん。
そのツケが私は今こうやってきていると思います。その責任を自分も含めて、引き受けなければいけないと考えています。

私や葭本さんがした発言について、許して欲しいとか甘く見て欲しい、という話ではないです。私たちに厳しく指摘することと同じように、セックスワーカーの被害の軽視に対しても厳しく対応するべきだと私は思います。

私を許さなくていいです。私も、皆さんが一向にやめようとしないセックスワーカーへの差別を、許すつもりはありません。TERFの言い分を広めないように気をつけるのと同じように私は、ミソジニー発言をする人のツイートも、セックスワーカーの性暴力被害を軽視するような人のツイートも広めないし、一緒に仕事はしない。この差別は許さないけど、この差別は仕方ないか、みたいなことは絶対にしません。この人たちは取りこぼしちゃダメだけど、この人たちは取りこぼしても仕方ないか、そういうことは絶対にしない。してしまうことがあっても、できる限りしないように努めて生きていきたいと思います。

私は今回の皆さんからご指摘いただいた差別について、さらに勉強して同じことで他人を傷つけることがないようにしていきます。皆さんはどうですか?これからも何も変わらないまま、セックスワーカーの訴える性暴力(望まない性的な行為)は他の職業の人が言うのとは違うよな・・・と判断して、二次加害を続けますか。トランス差別に反対している人や当事者に反売買春の人はいないだろうなと決めつけ、その人たちはマーチに来れないと思っていることを無視し続けますか。(もちろんその他の理由でこれない人もいると思うし、それがどうでもいいわけでは全然ありません)

私のことを「なんで周りは石川を止めないんだ」とか、「指摘してあげるべきだ」とか、オンラインサロンの人たちのことまで勝手に持ち出して勝手に想像して「誰も止められる人がいないんですかね・・・」と言っている方達。あなたたちの大好きな「主体性」はどこ行ったんですか。セックスワーカーにだけ殊更押し付ける「主体性」。
私は一人の成人した大人なので、自分の発言や行動によって起こる結果は自分が引き受けます。今回のことで仕事がなくなるならそれでいいです。周りに人がいなくなるならそれでいいです。

私の周りの友人たちが違うところは、私を他人だとわかっているということだと思います。それと、全ての経緯を追いきれていない状態で何かを言っていいと思っていないこと。私が葭本さんのことをこうやって話しているのは、全ての経緯を追っているからです。

私は葭本さんが言っていることは、絶対に訴えなければいけないことだと思っているのでこのような立場で発言を続けています。

私は、「誰も差別したくないから、今ある差別に対しても声を上げない」か、「今ある差別をなくすために、その途中で別の属性を差別してしまうこともあるかもしれない」だったら、後者を選びます。自身がしてしまった差別的発言は反省し続けるし、既に辞退した仕事もあります。

その時その時で、一番弱い立場になる人たちは変わってきます。今の私は、その判断を間違えているでしょうか?でも、皆さんがセックスワーカー論に反対している、反売買春の立場のトランスジェンダー当事者の顔があまり思い浮かばないのであれば、あながち間違っていないんじゃないか、と思います。だってそれは見えていない証拠なのだから。

私は私を支持したり、応援しないでほしいです。私の考えることは皆さんの考えることとは違うことだって当然あります。私は支持されるために活動をしていません。応援されるために活動をしていません。もう語りたくないと思っている性暴力の被害を、誰かに語らせたくありません。差別や性暴力をなくすための社会運動に、すでに被害に遭った人の労力も時間も、もう奪いたくありません。「とはいえ当事者が被害を語るしかしかないもんね・・・」で止まっていたくありません。

でもそれは、顔をインターネットに晒して、話したくなかった性暴力の被害や風俗で働いていた経験を話すことにした自分じゃないとわからないことなのかもしれません。だから、わかってもらわなくて大丈夫です。

わかってもらわなくて大丈夫なんで、せめて何が起こっているかを切り取りではなく全て把握して、その上で、どちらかだけに厳しくするとかやめて、公平に厳しくしてください。そして、私が皆さんのご指摘を素直に受け止め反省するように、皆さんもどうかご自身が本当に誰も差別していないのか、内省してください。

そして!とても大切なことを言います。男の話をしましょう!

風俗で女を働かせる男の話、AV業界の男の話、痴漢の男の話、TERFに異常なくらい糾弾するシス男性の話、Twitterで突然しゃしゃり出てきて「マイノリティ同士がトランス女性と女性の権利で争うのはやめよう!」とか女に言う男の話、セックスワークで働いたことも、これから働くこともないであろう男の話、性暴力の加害者の男の話、ずーっとなんにもせずに女同士を分断させている責任も取らずにのうのうと生活してる男の話!

セックスワーク論を支持しながらセックスワーカーの性被害を軽視する人も、TERFも、みんなみんな、みんなで男の話をしたいです!加害者の話をしよう!

ちょっと気を抜くとすぐに被害者やマイノリティにばかり目がいってしまうので、最後に加害者の話をします!

今、グラビア時代に許可していない露出のDVDを発売された相手に対して、弁護士さんを通して謝罪等を求めています。今も時々DVDを発売しているっぽいです。なぜなのでしょうね。撮影から15年です。それくらい、時間がかかります。性暴力に気がつくのには、本当に時間がかかる。そして本当にお金もかかる。泣

こういう被害にあって、さらにしなければならない苦労を、できる限りもうしてほしくないのです。だから今回、私は沢山沢山ツイートしていました。

ただ、Twitterはもう限界かなと思いました。
ことの経緯を追わなくても口出しをしてもいいと思っている人があまりに多い、Twitterで「差別や加害認定」ができてしまうこのツールは、私には必要ないかもしれないなと感じました。

最後に改めて、今回、トランスジェンダーの方とノンバイナリーの方の受ける差別の比較をしてしまったこと、本当にごめんなさい。これからも私が間違った発言をした時は、ご指摘くださると本当に助かります。セックスワーク論支持者ではないですが、トランスアライでいたいと、心から思っています。

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