「大豆田とわ子と三人の元夫」と好きの種類を分別する必要性

Netflixに登場した「大豆田とわ子と三人の元夫」を観た。

「大豆田とわ子と三人の元夫」

放送当時から私のTwitterのTLを賑わせていたので、きっと面白いんだろうな、と思って観た。
考えることがたくさんあるドラマだった。

たくさんの社会問題が直球ではないけれど盛り込まれていた。
女性差別だったり専業主夫への偏見と男らしさの強要だったり、デートDVだったり、同性愛、芸能人、離婚した人への偏見、ヤングケアラー問題、異性に恋愛感情を持たれることが嫌だと感じる人のこと、職場に色んな人種の人がいること。さりげーに結婚するときにどっちの苗字にするか問題も。

何も知らずにSTUTSの主題歌だけは聞いていた。新しい人生に向かって少し寂しいけれど、過去の幸せだった日々とはさよならをして、でも胸に抱えて生きていく、そんなイメージを持っていた。ドラマを見て更に素敵な曲だなと思った。
色んなバージョンがあるのも意味がわかった。その日放送されるドラマの内容に合わせて作られている。「654321」の意味がわかった時は感動した!

松たか子さん演じる大豆田とわ子とその三人の元夫や親友や、新しく出会った人との様々な出来事を描いたドラマだった。
みんなが色んな愛を色んな人にむけている、そんな印象。

このドラマを観ているときにずっと考えざるを得なかったのは、性別や結婚や離婚によって愛の形や関係性は変わるものなのだろうか?ということ。
大豆田とわ子は三回結婚して三回離婚している。母親の死をきっかけに全元夫と再び関わるようになる。
そして、元夫同士もなんやかんや仲良くなっていく。
今も大豆田とわ子を好きな元夫たち。表面上は大豆田とわ子を取り合うようなやりとりも見られるのだけれど、それよりもこの名前のついていない関係性もありなのではないか、と思わされる。

更に、大豆田とわ子の親友のかごめは男性と恋愛をするのが嫌だそうだ。せっかく仲良くなっても異性だとどうしても恋愛になってしまう。それがすごく嫌だという。それが、かごめという人。「異性とは恋愛するものだ」といういつの間にかできていた常識は本当に常識なのか。このことが余計に結婚や離婚というものの意味を考えさせてくる。
大豆田とわ子とかごめはとても仲がいい。家族みたいなものだとお互いに思っている。これは友情なのか?もしかしたら恋愛なのか?はたまた他の何かなのか?大豆田とわ子の母親とその大好きだった人との関係性とは違うものなのか・・・?

自分の中に宿った「好き」という気持ちや愛に、わざわざ種類分けしてラベリングすることの必要性はなんなのだろうか。
なにが幸せかを自分が実感するために必要なことなのだろうか。

でも、幸せっていうのも一体なんなんだろう。好きになったら結婚してずっと一緒にいるのが「当たり前?」一緒にいないことを選ぶということは好きではないということ?
一人でいると幸せになることはできない?誰かと一緒にいられたら幸せ?物語の中では大切な人の死が突然やってくる。だけど、死んでしまったあの人は不幸なのだろうか。あの人は死んでしまったから、もう私との関係性は変わってしまったのだろうか?

昔付き合った人たちが、同性だったらよかったのに、と思うことがある。同性だったら向こうが結婚したって何事もなく普通に仲良くしていられる可能性が高いだろう。異性である以上、結婚したら気軽には遊べない。二人でご飯を食べに行ったら不倫かのように扱われる。なんなら、昔付き合った人と結婚した相手と私は本当は気が合う可能性だって高い。だって、同じ人を好きになったもの同士なんだ。

過去に付き合っていたとか、異性であることを理由にずっと同じように仲良くいられないことを寂しく思う。
この世の中に、付き合ったり結婚するのは異性だとか、付き合うのは一人の人だとか、そもそも付き合うとか結婚とかいうものが存在しなかったら、私は一体誰をどういう形で愛しているんだろう。
性別や相手が結婚しているとかいないとかパートナーがいるとかいないとか、そんなことを全く考慮せずに愛する人ができたりするのだろうか。

もう、今の「当たり前」の世界で30年以上生きてきてしまった。全てを私の中から取っ払うのは当然無理だ。だけど、それでも私は私の心に生まれる「好き」を大切に扱いたい。これまで「これは普通と違うから」で見てみぬふりをしてきてしまった「好き」や「会いたい」が、たくさんあったように思える。そんなスタート地点に立ったような気持ちだ。

自分の中にたくさんの矛盾がある。結婚制度に疑問を持ち、一人でいる時間を楽しいと思っているのにどこかで人といることへの憧れを捨てきれないし、穴を埋めてくるんじゃないかと期待している。誰にも、何にも縛られたくない自分と、誰かに、何かにどっぷりと依存したい自分と、それでは本当の幸せとは言わないんじゃないかと思う自分と、そもそも本当の幸せってなんだろうと思う自分。常に今の自分は完璧ではないという自信のなさと、そこからくる存在しないかもしれないものへの過剰な憧れに頭も心も支配されて身動きが取れなくなっている自分。でもそれでいいのかもしれない。そんな私で一旦いいのかもしれない。そう思わせてくれたドラマだった。

私の人生は映画でも小説でもドラマでもないから、今ここに私が存在しているだけで、幸せな結末も悲しい結末もやり残すこともないのだろう。私という人間がどんな人間だったか、ということだけだ。

私がこのブログで大豆田とわ子のことをいちいちフルネームで大豆田とわ子と言いたくなってしまうのは伊藤沙莉さんの癖になるナレーションのせいだと思う。このドラマを見てから頭の中で自分の行動にナレーションをついつい付けてしまう私の毎日が、少しでも自分にとって面白いものに感じられたらいいな、と願った。

「大豆田とわ子と三人の元夫」と好きの種類を分別する必要性” に対して2件のコメントがあります。

  1. ささみ より:

    私も同じことを言った記憶があります。

    「女の子だったら親友になってずっと仲良くいられるのに。同性として出会いたかったな。
    そしたら変に勘繰られることなく
    いられるのに。」

    と。

    どの方も私は人として居心地のいい
    関係だったので。
    支配とか所有とかそういうものではないし
    友人とか恋人とか夫婦とか他人目線のものでもなく。

    ただ語り合うとか…
    そういう欲のない関係が好きで。
    もちろん、相手には理解されませんでした。

    友達って言われたら
    市販の友達って関係にならなきゃならないと
    思ってしまうし、恋人って言われても同様で。

    そういう誰かが決めた定義なんてなければいいのにな、と思っていました。

    定義のためにその人があるんじゃなくて
    今ここにある関係は二人にしかないものだから
    すでにあるものには置き換えられないのになって。

    …すみません^^;やっぱり熱くなりました(笑)

    お邪魔しました(๑˃̵ᴗ˂̵)ノ

  2. 細島 久美子 より:

    とても素敵な文章が心に沁みました。「好き」という気持ちや愛をこんな風に受け止め、向き合えたら、人と人はもっと優しく、寛容でいられるのだろうなぁ。これから先の人生、私も「好き」という気持ちにこんな向き合い方をしたいと思いました。ドラマは1度も見なかったけれど、Amazonプライムで観られるようなので、絶対見たいと思います!

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