「脱ぐ」ということ

「女が脱ぐ」ということは、一体どういうことだろう。
どういうことだろうと言っても、表面上だけを言えば「何らかの場所で表現方法として女性が胸やヘアを出すこと」を指しているのだと思う。
ここで今言っている「どういうことだろう」というのは、もう少し心の奥というか、脱ぐということの扱われ方というか、そういう物理的でない部分について、今現在私が考えていることを書きたいと思う。

私は、2014年に映画でフルヌードになり、同時に写真集も出している。れっきとした「脱いでいる女」にあたるだろう。
高校を出てすぐ、グラビアの仕事を始めた。その中で私は、脱ぐことと戦っていた。
あの社会には「売れない女の子=露出を多くさせる」という価値観が間違いなくあった。どれだけ少ない露出で仕事を得るか、みたいなところの戦いだったと思う。もちろん、それが全てだったなどというつもりはない。
ルックスのレベルの高い子がたくさん露出をすることによって話題になり売れることだってある。
でも、多くのクライアントはどれだけ脱がせるかを交渉し、女の子側はどれだけ脱がさないかを交渉する。

つまりやっぱり、脱ぐということは「とても素晴らしいことで、誰もがやりたいこと」ではなかったと思う。
ネット上グラビアアイドルなどの話をするときは、「価値がないんだから早く脱げよ」という言葉がたくさん見受けられた。私専用のスレッドにも同様のことがたくさん書いてあった。脱ぐことを求めながら、脱ぐ行為をバカにしている、何とも不思議な空間だった。

私も同じように、やっぱり露出をしたくなかった。できる限りしたくなかった。だって、私に脱ぐことを求められるのは「脱がないと価値がないから」、だからだ。「脱いだ方が私にとっていいことだから」ではない。「脱ぐならなんとか使ってやってもいい」からだ。

そんな中、必死で戦って守ってきたその一線は他者によって勝手に超えられてしまった。21歳くらいの時に出したDVDで、胸の先端が露出した映像を勝手に発売されてしまったのだ。私本人による事前チェックはさせてもらえなかった。私がその事実を知ったのは、私のブログや当時の2ちゃんねるなどへの書き込みであった。今でもその事実を知った瞬間のショックは忘れられない。
「私の人生が終わった」と、大袈裟ではなく本気で思った瞬間だった。
もう私は、「脱いで」しまったのだ。それを自分で決定したのではなく、他人にされてしまった。もう私は「脱いだ女」として社会から扱われる。脱いだ女の扱われ方は見ている。「堕ちた」などと表現され、脱いで「しまった」と言われ、「もう普通の服を着ての仕事はないよね」と言われ、判断され、オーディションだって制限される。NHKなんてもう一生出られない。一生その画像は残り続け、一生地元で「脱いだ女」とバカにされ続ける。

それで私が選んだのは、このまま仕事を続けることだった。グラビアの仕事で売れれば、この事故はなかったことにできるかもしれない。というか、そうするしか選択肢がないと思った。そしてそのまま私はその後、30本ほどDVDを出した。最初に勝手に出されたようなことは、もう暗黙の了解になったかのように、同じことが繰り返された。一回も私にきちんとした相談があったことはない。私もその話をしたらもうDVDが出せないと思ったからできなかった。DVDが出せなくなったら、私の人生は何も取り返せないまま終わるから、それを選択することは当時の私にはできなかった。

初めての事故から6年とか7年が経って、映画のオーディションがあった。その頃、壇蜜さんが主演映画で脱いでいたり、というはやりがあったように思う。多くのグラビアアイドルが映画で主演をし、初めて脱ぎ、ブレイクしていく。そんな様子を「かっこいいな」と思ってみていた。

フルヌードになるということが、とてもかっこよく思えた。それは、映画のためだからだろうか。「自分で選んでいるっぽいから」だったのだろうか。お芝居だからだろうか。グラビアで露出を増やすのとは社会からの扱われ方が違うからだろうか。いろんな要因があったと思うが、とにかく私にはすごくかっこいいことに思えた。私も脱ぎたいと思い、そんなオーディションがないかマネージャーに探してくれと頼んだ。そうして行ったのが2014年に主演で脱いだ「女の穴」のオーディションだった。

脱げてよかった、と今でも思う。これまでの本当はもうやりたくないのにやるしかないと思って、中途半端に脱いでるのか脱いでないのかよくわからずに出していたDVDの撮影とは全く違った。自分の気持ちが全く違った。
自分の裸がすごくいいと思ったし、たくさんの人に見て欲しいと思った。私にとって脱ぐということは、インスタで好きな洋服を着て自撮りをして載せることとあまり大差がないように思った。
洋服を着ている私よりも、裸の自分の方が私は好きなのだ。それを知ってもらいたいと思うことは、そんなにおかしなことではないような気がする。

そしてその後、あまりグラビアの仕事はしなくなった。DVDの依頼は多々あったのだが、男性だけに向けて脱ぐようなことはもうしたくないと思った。それは私の大好きな裸であってもだ。
でも、そうじゃない場所ではどれだけでも脱ぎたい、そうも思うようになった。

そして2017年に#MeTooして、ジェンダーやフェミニズムについて学ぶようになった。
その中で、私は「脱ぐ」ということが女性だけに起こることだ、ということに気がつかされた。
男性の俳優は「脱ぐ」という概念はないと言っていいだろう。同じ俳優の仕事なのに。

「女性は脱げば主演になれるから特権だ」的なことを言われたことがある。でも、脱げない女の子は?そうやって脱げない女の子を排除してないか。だって、脱げない男の子は脱げる男の子と比べられることはあり得ないのに。脱げる女性を「やる気・根性がある」とする風潮もある。そんなこと男性には言われないのに。
女性が脱ぐことに意味を持たせ、やる気のある女性が脱ぐようにしむけるこの社会の構造に、はぁ、という気持ち。

一方で、私は今でも自分の下着姿や裸を自分のSNSに載せたり、写真を撮ったり、時には本に掲載されることもある。
そういうものに対して、フェミニストから「脱ぎたいと思わされているのに”自分が脱ぎたい”と思ってしまっている」と言われたことがあって、それには断固抗議したい自分がいる。私がこの男尊女卑な社会の様々なものに巻き込まれて脱ぎたいと思うようになったことは確かにそうだ。でも、それでも今の私が脱ぎたいと思う気持ちは確かに存在しているのだ。

現代書館が出版しているフェミニズム雑誌「シモーヌVol.1」で、私はヌードの写真を披露している。
それを見た人が、「なぜグラビアの時代に嫌な思いをしたのに、こうやってヌードになって男のために裸を出すのか」と質問してきたことがある。フェミニズム雑誌で脱いでも勝手に「男のため」にされてしまうほど、女の裸は男のためにだけ存在していると扱われてきたのだな、と悲しくなった。

私の「脱ぎたい」は洗脳なのだろうか?そもそも、「脱ぐ」という行為に特別であったり、逆に「堕ちた人がすること」というような意味づけが存在しなければ、多分私は脱ぐとか脱がないとかに対して特別な感情を持たなかったと思う。服を着るように、服を着ていないこともただの状態だと思うのだと思う。
今私は、とにかく映画で濡れ場がやりたいし、裸になりたいし、TPOを弁えればできる限り自分を裸で表現したいと思う。もちろん、場所と文脈は考慮するが。
それは私の中で、「女性が脱ぐ」ということは、勝手に社会が作り上げてきた意味があったんだな、ということがわかったからだと思う。私の中ではもう脱ぐことに対して、特別でも、堕ちた人がすることでもないと納得できたから、元々の自分の思いである「別に脱ぐとか脱がないとか、特別なことじゃない」という気持ちが大前提にあって、そこから「なのに特別なこととして扱われているから、カウンターとしてただただ脱ぎまくってみたい」と思っているのだと今の私は思う。女の裸を特別なものとして扱いたくない、扱われたくない、という気持ちなのだと思う。

脱いだことが、まるで悪いことをしたかのように言われることもある。「大変だったんだね」とか言われることもある。「可哀想」とも。別に可哀想じゃない、仕事上求められて、私はそれを許容できたからやっただけだ。女性に脱ぐことを求めておいて、なぜそれに応えるとこんな扱いを受けなければいけないのだろうか。よく嫌がらせで私の水着や裸の写真を貼り付けて、「こんな仕事をしていたくせに」と言ってくる人がいる。
でも、「こんな仕事」はこの社会に当然に存在しているのだ。存在しているからやっているだけなのに、私は何か悪いことをしたのだろうか?「こんな仕事」と言って、やってはいけない仕事かのように言うならばこの社会からこんな仕事はなくさなければいけないのでは?そういう矛盾が気持ち悪くて仕方ない。

「女が脱ぐ」ということや、「私が脱いだ」ということに対しては、今の私の立場でも本当に複雑な思いでごちゃごちゃになっている。今の私の気持ちとして、ここに記録しておく。

2021.10.7

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です