お母さん嫌いでいいよね、もう。

前回のブログを書いてから、色々と考えていました。

「アダルトチルドレン」という言葉。ACと書かれたりするけれど、この言葉を調べると出てくる通り、「大人になりきれていない大人」というように間違って認識している人は多いように思えます。

アダルトチルドレン(AC)とは、自分は子ども時代に親との関係で何らかのトラウマ(心的外傷)を負ったと考えている成人のことをいいます。

親との関係でのトラウマとなりうる精神的な傷つき体験としては、アルコール依存症や薬物依存症、セックス依存症、ギャンブル依存症、ワーカホリックなどといった嗜癖障害(依存症)の親の元で育つことや、機能不全家族の元で育つことなどが挙げられます。

https://h-navi.jp/column/article/35026768

ここにあがったものを見ると、「いや、うちはそんな激しいことはなかったぞ・・・」と思ってしまいそうになるのですが、もう少し色々と調べていくと、「親との関係性の中で、安心することや自尊感情が育たなかった」という感じかなと思います。

前回のブログを書いたときに、結構多くの方から「私もそうで、今も苦しんでいる」という声をいただきました。

私は信田さよ子さんのこの記事を読んで、少し心が楽になりました。

どのようなキャッチフレーズが登場したかを振り返ってみると、「自分を愛せなければ他人を愛せない」「あなたが自分を好きでなければ他人に愛されるわけがない」「自分を愛せるように」「自己肯定感を高めるための法則」「自己肯定感の低いあなたに足りないもの」などなどです。

共通点は、多様な説明や切り口があるにもかかわらず、最終的には自分で自分をどうにかできる、しなければならないという考えに帰着することです。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128?page=4

自己肯定感という言葉にムカついていた

「自己肯定感」という言葉に、結構苦しめられてきたなと感じます。
「自分を愛すること」とか、大切なのはわかるよ。もちろん愛せたら一番いいし、自分を肯定できたらいい。
でも、私が今苦しんでいるのはそれができないからなのに。自分を肯定できない自分を否定されたらもうどうしようもない。
こんなループに取り込まれていたなと感じます。

結局自分で自分を認めないと、自分の存在価値ってないってこと?みたいな、とてもややこしい感じ。

なので私はあんまり「自己肯定感」という言葉は使ってこなかったと思います。「自己肯定感が低い」という使い方はしたけれど、「自己肯定感を高めよう」とか「自己肯定感を持とう」みたいな使い方は多分していないんじゃないかな。めちゃくちゃ意識していたわけではないけど、どっちかというと「自己受容感」みたいなものの方がしっくりくるかな?とか色々思っていました。

ボディポジティブ系のやつにも、もやもやした気持ちはずっとあって。
これはエッセイ「もう空気なんて読まない」の中でも触れているのですが、確かに自分の身体を自分がいいねと思うことは大切だと思います。それは私もそう思うので、自分に対して声をかけるということをしていたりする。し、それで嬉しい気持ち・温かい気持ちになることも確か。ただ。いくら自分が「私の身体って最高!ひゅー!」と思ったって、外部がそうではない。外からは「お前の体は醜くて最悪だ晒すんじゃない気持ち悪い恥ずかしくないのかみっともない」という言葉が入ってくるような環境で、自分だけが自分の身体最高!ってなれるわけあるかい!と思う気持ちもあるのです。

だから私は、自分の身体に声をかけてあげることと同時にやっぱり社会の価値観を変えていくようにしないといけないと思います。やっぱりボディポジティブは自分一人では達成できないことなのです。だって他者が存在していなければそもそも自分の身体がいいとか悪いとか考えることすらないだろうし。でも他者が存在しているからこそ生まれる自分の身体への思いなわけで、それを自分一人の力でなんとかできるわけがないやーん。と思っています。

アダルトチルドレンについてもう一度考える

アダルトチルドレンの話に戻りたい。私は#MeTooにたどり着くまでに、「自分のこれまでの人生を徹底的に向き合った」ということがありました。これもエッセイの中で書いていて、そこの部分は無料公開している「はじめに」のところに書かれているので読んでもらいたいのですが、ある本を読んで、自分の中にある記憶とか感情とか、そういうものを書き出す、というところから始まりました。

日本でもベストセラーになった『シンプルに生きる』の著者による実践書が、この『シンプルリスト』。ドミニックさんがあげたリスト項目に導かれ、書きだすだけで、心も持ちものも驚くほど整理され、幸せを見つけることができるのです。

この「ゆたかな人生が始まるシンプルリスト」というものです。
この本を読みながら、私はリストを作ってみました。
・自分は何が嬉しいと感じるのか・自分は何が嫌だと感じるのか・自分は何かしたいことがあるのか・今までの人生で楽しかったことはあったか

などなど、様々な自分についてのリストを作っていくんです。
その中で、特に「自分は何が嫌だと感じるのか」というところを今見返すと、「仕事で好きでもない人とセックスをしなければいけないこと」「グラビアで望んでいないのに露出をさせられること」など書いてありました。書き出してみて、初めて「自分がそれに対してどう思っているのか」を認識した瞬間でいした。

で、私はこの流れでこれまでの自分の人生を思い出してかなり振り返りました。
このとき参考になったのは、鴻上尚史さんの演技の本です。

なんでここで演技?と思う方もいると思うのですが、多分多くの役者が役作りをするときに使っている「スタニスラフスキーメソッド」というものがあります。

スタニスラフスキー・システムStanislavski System)は、ロシア・ソ連の演劇人で、俳優演出家であったコンスタンチン・スタニスラフスキーが提唱した演技理論である。その背景には、フロイト心理学の影響があると言われる。

俳優の意識的な心理操作術を通じた、人間の自然による無意識の創造を目的とする。方法としては、意識による間接的な手段によって潜在意識を目覚めさせ、それを創造の中に呼び込むものである。スタニスラフスキーのシステムは「役を生きる芸術[2]」を開拓するものであり、これは「形で示す芸術[3]」に対置される[4]。この方法では、感情の経験や潜在意識の振る舞いといった、コントロールしにくい心理的プロセスを交感的かつ間接的に活性化するため、俳優の意識的な思考や意志といったものを動員する[5]。リハーサルでは、俳優はアクションを正当化するための内的動機を探し、登場人物がある瞬間に何を実現しようとしているのかを決定しようとするが、これは「課題」と呼ばれる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0

やり方をすっごく簡単に言うと、その役が台本に書かれている以外のところでどうやって生きてきたのかを自分で作り上げ、その結果この台本に書かれているシーンでこの役はどうやって反応したり動いたりするのだろうか?ということを作り演技する、ということなのだと思います。(すみません、めちゃくちゃざっくりなのですが・・・)

よく「役を生きる」と表現されることがあると思うのですが、これってつまりこの役には当然生まれてから今日までの人生があって、台本に書かれているのはその人生の中のある一部である。となると、これまでの人生でどういう時間を過ごしてきたかによって今この台本で書かれているところは変わってくるだろうと。芝居をするときはそういうことをたくさん考えていました。

めちゃくちゃ例えばですが、例えば幼い頃に虐待を受けていた役だったとしたら、もし台本の中で「大人が怒鳴り散らしているシーン」になったときに、何かしら反応するか、もしくは反応しないか、ということが考えられます。これはこの「幼い頃に虐待されていた」と「幼い頃に虐待されていたという設定はない」とじゃ、このシーンでのこの役の反応とか気持ちの動きは全く違うものができるということです。

私はこれを役だけではなくて、自分にもやってみました。私の人生ではどういうことがあって、どういうことにすごくショックを受けたりとか、今も頭から離れないことがあるとか、今ある心の癖は一体いつからできたものなのか、そのきっかけはあったのだろうか、とか。

そういうことを思い返していったときに、やっぱり親との、特にうちは育児は母がほとんどしていたので、母との色々なやりとりを無視して今の自分があることは考えづらいな、と思うようになりました。
実際、母親の言った言葉をすごく鮮明に覚えていることとかってかなりたくさんあって、それによって今の私の考え方が作られた部分はとても多いです。

なんですが、そういう話を少し母にしたことがあって、でもそれをすごく否定されました。もうちょっと褒めて欲しかったとか、こういう言い方はやめて欲しかったとか色々と伝えたことがあったのですが、「こっちはそんなつもりで言ってない」とか、「そっちが家にあんまりいなかったんじゃないか」とか、とにかく過去の自分について全く考えようという姿勢が見られませんでした。まるで今こうやって振り返っている私側がおかしい、というような反応をされました。

信田さんの記事を色々読んでいて、つまり母は自分と関わったことで今娘が苦しんでいるとは思いたくなくて、全て私のせいだと、私の生まれ持った性質のせいだということにしたいのだと感じました。でも、20年近くガッツリ関わって生きてきたのに母の影響がないわけがないのに、それを全て私の性質だけのせいにしようと母はしているなと思いました。全てが母のせいなんて言っていないし、当然私の性質だというのも何割かあるでしょうし、色んな性被害に遭っているわけだからそういうのも当然影響しているだろうけど、母とのことが影響ゼロなわけがないのに。

私の中でもやっぱり、「でも母はいい人だし」とか、「育ててもらったしお金のことで助けてもらったことも何度もあるし」とか、色々あって今の私がこうなっているのに母は関係ない、こんな風に思ってはダメだという気持ちもあったこともあり、このような母の反応を受けて余計に私は自分だけのせいにしようとしていったように思います。

でも、だったら今私の中ではっきりと母の放ったいくつかの言葉が昨日のことように再生され続けるのは何故なのでしょうか。
絶対にゼロではない証拠だと思います。

昔母に、「ブログに家族のことを書くな、本当は自分がどこ出身かも書いてほしくない」ということを言われました。
自分のことを書かれるのが嫌だと言っていたけど、どこ出身で私には母や家族がいて、というのは母だけのことではなく私の人生の一部なのに、それを制限できる権利が母にあるのだろうか?とすごく反発を覚えました。

いろんな形で自分の人格は母に否定されてきました。何度も何度も「なんであんたはそうやって思うの」と、私が何かを感じることを否定されました。映画で脱ぎたいと思うことも「おかしい」と言われました。「普通は脱ぎのない映画に出たいと思うはずだ」って。母は本当によく「普通は」「一般的には」という言葉を使いました。そこに当てはまらない私をよく否定し責めました。私はずっと、自分の中に生まれてくる感情を素直に許せません。それはこういった母の言動の影響が全くないとは思えません。

でも、信田さんの記事などを読んでいて、やっと母をもう少しストレートに責めてもいいかなと思うようになりました。クソでしょ、結構。今まで心の中でうちの母親がそんな悪い人なわけないと思っていたけど、私からしたら全然クソ。外面だけいい、自分は絶対に悪いことはしてないって言い張ってくる、これまで抗議したこと全部そうだった。自分の言動を見返すことすらしようとしない、書いてて思ったけどどこのこどもなの?

実家に帰ってくるなというので、多治見に帰るときは友人の家やホテルに泊まるのですが、「実家に泊めてもらえないとか人に言うな、お母さんがおかしいと思われるだろ」って言ってくるんです。いやいや、おかしいと思われるってわかってんじゃん。

今日まで母親は尊敬するべき存在だという、「一般的な考え方」にかなり囚われていました。でも改めて考えて向き合って良かったです。こういうことがきっとたくさんたくさんあるのだろうなと思います。それと向き合うのは本当に労力が入りますが、時間をかけてでもやっていかなければいけないのかなと思います。自分を救うためにです。

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