愛されたいと愛されなくてもいいの狭間で

フェミニズムに出会って自分の中で明確に変わったことは、
「誰かに好かれる必要はない」
ということだった。

人一倍、人にどう思われるかを気にして生きてきた人生だった。
人に嫌われるのが怖かった。人に「あの人おかしいんじゃない」と言われるのが怖かった。
「自分がどうしたいか」よりも、「人におかしいと思われないかどうか」を行動の基準にしていた。

それは、恋愛でも強く出た。
私は「異性愛が普通だ」、「恋愛をするのが普通だ」、「結婚をして子どもを産むのが女の幸せだ」、という社会で育ってきた。
地元ではほとんどの人が、20代前半で結婚をして子どもを産んで、家を建てる。
「フリーランス」という働き方をしている人は多くはない。正社員で働いていないと「フラフラしてる」とか「能力がない」と見なされるし、独身でいると「結婚できない人」と見なされる。子どもは欲しいだろうという前提で会話がなされる。

そんな環境で育ってきた私は、男の人に愛されないといけないと思い込んでいた。それが女のあるべき姿だと本気で思っていた。フェミニズムに出会うまで、男の人に愛されるために生きてきた。男の人に愛されなければ、自分には価値がないと思っていたからだ。

恋愛ではないその他の人付き合いも同じような感じだった。嫌われないため、褒めてもらうため、すごいと言われたくて、認められたくて、私の言動は決まっていった。
その結果、人から極端に嫌われたり意地悪なことをされることもなく穏やかな人間関係を保ってきていたと思う。
映画で脱いだのも一つのそれだ。それよりも前に別のDVDで、契約にないような一線を越えた露出のものが発売されてしまった。それは私にとって恥ずべきことだった。人に知られたくないような身体の扱われ方だった。だから、それを打ち消すくらいのものがなければ私は私の尊厳を取り戻せない。それにはもう、「自分で脱ぐ」という行為しか残されていないように感じた。ただ契約違反をされた時よりは心の状態はマシになった。「人に勝手に自分の体を扱われた」という状態から、「自分で選択して自分で脱いだ」に上書きしたのだ。以前よりは、マシだった。

だけど、私は全然幸せじゃなかった。

「認めてもらいたい」「みっともないと思われたくない」だけが先に来てしまって、「好かれたい」「愛されたい」だけを目的としてしまって、本当の私が何がしたいのかが全くわからなくなってしまっていた。

そんな私を救ってくれたのがフェミニズムだった。

「私がどうしたいのか」、を考えるべきだと教えてくれたのがフェミニズムだった

フェミニズムは、何よりも「自分がどうしたいか」を考えることを教えてくれた。
フェミニズムは、男性のための自分でなくてもいいことを教えてくれた。
フェミニズムは、私と他人が違う人間だということを教えてくれた。
フェミニズムは、全ての人はみんな違う人間だということを教えてくれた。

男の人に愛されることは必須ではないことを知って、私は本当の自分がどのような自分でいたいのか、自分が何をしたいのかを見つけられるようになったし、行動できるようになった。

だが、少し油断するとすぐに戻りそうになる。
気がついたら誰かからの承認を求めてしまっていたりもする。いいねの数を気にしてしまったり、自分よりも多くメディアに出ている人を見ると焦ってしまう。
相変わらず社会は私に「好かれる人間であれ」「みんなに愛される人間であれ」という圧力をかけてくる。そうでなければずっと嫌がらせをされ続ける。本当はみんなにとって都合のいい、好かれるような以前の自分でいた方がこんな目に合わなくて済むのだろう。そっちを選んだ方がいいかも、と思う日もある。
でも、私が求めているのはいいねでも多くメディアに出ることでもないはずだ。そうやって、「自分には承認欲求があるのだな」と認めることができるようになっただけでも、よかったんじゃないかと思うし、いいねを求めて自分の発言を変えるようなことをしなくて良い自分になってよかったとも思う。

恋愛だってそうだ。いくら頭で結婚する必要がないと知っても、それでも相変わらずパートナーに依存してしまったり、愛されるために無意識に頑張ってしまうし、嫌われたくないし、見捨てられるのが怖い。30年くらいをかけて身体に染み付いてしまったものなのだろう。

構ってくれない、愛してくれない、私のことだけを見てくれない、LINEを返してくれない、人の話を聞かない、他の女の子と仲良くしてばっかり、約束を守ってくれない、何度も同じことを繰り返す。
自分が思う「もう嫌だな」よりも、「相手と離れたくない」が勝ってしまう。相変わらず他人軸な自分がしっかりとそこに居座っていてびっくりしてしまう。多分、もうずっとうまいこと付き合っていくしかないのだろう。

人に認められたいことも愛されたいことも、何も悪くない

「ミス・マルクス」という映画を観た。

https://missmarx-movie.com/

19世紀を代表する哲学者、経済学者カール・マルクスの末娘で、女性や子ども、労働者の権利向上に生涯を捧げた活動家エリノア・マルクスの激動の半生を、パンクロックに乗せて描いた伝記ドラマ。1883年、イギリス。最愛の父カールを亡くしたエリノアは、社会主義者の劇作家エドワード・エイヴリングと出会い恋に落ちる。しかし、不実なエイヴリングヘの献身的な愛は、次第に彼女の心を蝕んでいく。エリノアは時代に先駆けた女性活動家として活躍しながら、苦悩に満ちた愛と政治的信念の間で引き裂かれていく。

https://eiga.com/movie/93564/

著名な女性活動家も、人間なのだ。そんなことを思わされた映画だった。
「人形の家」のノラを演じたエリノアが恋愛に溺れ、男から離れられないのはおかしなことだろうか?
家父長制に抗い、男に愛される必要はないと知った私が苦しい恋愛から逃れられないのはおかしなことだろうか?

承認欲求があることも、男に愛されたいと思うことも、それ自体は何も悪いことではないと思う。ただ、その状態に自分がわからずに翻弄されるのがとても苦しいことだと思うし、他人に・国家に都合良く使われやすいのだと思う。何よりも、自分が一番に求めていること、やりたいことを自分でわからずにさせてあげられない状態は、一体なぜ自分が苦しいのかすらわからないから解決することができず、息苦しく重い時間であることが多いだろう。フェミニズムに出会うまでの約30年間、私はその状態だった。

頭でわかっていたところで、私たちがいる社会の価値観が変わらない以上、簡単に抜け出せるものではきっとないのだ。だからこそ個人が個人で闘って自分の環境を変えようと頑張ることと同時に、それらを取り巻く社会をみんなで変えていかないといけないと強く思う。多分私が男性として生まれ育ってきたら、ここまで「愛されないといけない」「異性がいないと生きていけない」の呪いにはかからなかっただろう。(トロフィーの役割の女性を求める呪いにかかることはあったとしても。)それはやはり、この社会が私という人間の多くを形成してきたということだと思う。

髪を切った。
人からみっともないと思われるのが嫌で、ずっと切れなかった。でも、人にどう思われるかよりも自分が「髪を切りたい」という気持ちを優先してあげた。そんな小さなことからでも、自分がしたいことを選ぶ練習をしていくことが大切だと思ったのだ。

それでもSNSに載せて「似合う」と言われたい自分に直面して、他人からの視線と自分の欲求、どちらとも一生仲良くバランスをとってやっていこうと心に誓った。

「他人に何を言われても気にしなくていい」じゃない。「他人に何か言われて気になるのは当然のことで、何も悪いことではない」なのだと私は思う。承認欲求も愛されたい気持ちも人に嫌われたくない気持ちも大切にした上で、それでも私は愛されなくてもいい、好かれなくてもいい、嫌われてもいい、認められなくてもいいから、自分のやりたいことをする、を選択したい。

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