#KuTooへの批判から見られる様々な問題点
この記事は、私が始めた「#KuToo署名活動」への批判やバッシング、スラットシェイミングなどの様々な反応から見られる問題点をまとめます。
目次
「会社に言うべきだ」「抗議して処分されてから言え」という批判
雇用主と労働者という関係性の中で、上の人に言い出せないということが問題だということが分からないこと。労働者が「今の仕事をなくしてしまう・上司からマナーの守れないやつだと思われてしまう・職場で波風を立てて空気を悪くしてしまい、働く環境が悪くなること・職を失ったのちに再就職することの難しさ・好きな仕事、やりがいのある仕事を失うこと」をどれだけ恐れるのかを理解できない。それは労働者は仕事を失うことに繋がり、生活ができなくなる=生きていけなくなる、に繋がる。
「男の革靴だって辛いんだ」という批判
→男性の革靴よりも女性の履いているヒールありのパンプスの方が足への負担・労災リスクが高いのは科学的にも実証されている。(厚生労働省は飲食店でのヒールのある靴は転倒などどリスクがあるとし、推奨していない。)
にも関わらず、男性が革靴、女性がパンプスをそれぞれ身につけることによって同じものと錯覚してしまう。これは、男女は今の状態が同じであると思い込んでいるのでその違いを認識することができないのではないか。
「男性の革靴=女性のパンプス」ではなく、「男性の革靴=女性の革靴」であり「男性のパンプス=女性のパンプス」であるということが分からない。
例えばホテルの従業員が「男性はパンプス。女性は革靴」と義務付けられていても同じだと思えるのだろうか。そうなった場合、男性は黙ってパンプスを履き続けるのであろうか。
ここの違いが分からないことから、「履けないなら仕事をやめればいい」「職業選択の自由がある」という発言が出てくる。男性にはパンプスが義務付けられていないので、男性がパンプスを理由に仕事を辞める事も、パンプスが必要でない仕事に限定して働き先を探すこともない。もう一度言うが、男性の革靴よりも女性のヒールありのパンプスの方が足への負担も労災リスクも高い。男性と女性の「仕事を辞める理由」「職業選択の自由の幅」が違うと言うことに気がつけない。
「好きでヒールを履いている人もいる」「私はヒールが履きたい」
文章が読めない、日本語が理解できていない。
この運動は「職場でヒールやパンプスを本当は履きたくないのに、足を怪我しているのに指定されて困っている人を助けるための運動」であり、「ヒールを履きたい人」は何も関係がない。(むしろ署名ページではしっかりと「もちろん、ヒールやパンプスが好きな方は引き続き履ける権利を。」と記載している)
これは日本人の「みんな一緒が正しい」と言う空気が関係しているのではないか。他人が「履きたくない」と言うと「自分にも履くなと言っているように感じてしまう」のではないか。自他の境界線が曖昧なのではないか。この空気があるせいでそもそも「パンプスやヒールが女性のマナー」と言う同調圧力も生まれているのではないか。
なんでも一括りにしがちな印象がある。誰も「女性みんなが義務付けられている」とか「男性がみんな性差別主義者だ」とか「女性みんながヒールが痛いんだ、履きたくないんだ」とか「私は女性の代表です」とか言っていないのに、勝手にそう言っていると勘違いし批判してしまう。
これにはまず「人の話を聞かない」「文章を自分の都合よく解釈してしまう」「疑問に思ったことを分かるまで自分で調べず想像の範囲内で判断し口にしてしまう」それに+「属性で人を一括りにして考えがち」ということが関係しているのではないか。
「本当にそんな義務付けがあるのか」「嘘ではないのか」
足を痛めている人が「痛い、苦しい」と言っていることを無視してそれが嘘じゃないかの証拠探しを頑張る人がたくさんいる。たくさんの怪我、足の痛みがどこかに置いてけぼりにされる。これには根本に「女性の気持ちや感情を軽視している」ことが問題だと思う。(泣くと「嘘泣き」、怒ると「ヒステリー」、性被害を訴えると「金目当てじゃないのか」、生理痛を「ズル休み」など)
確かに事実確認やデータが必要だが、だからと言って本人たちが「痛い」と言っている声を無視してはいけない。そもそも痛くなかったらこんな運動はしていないし、パンプスだって履きたくなくならない。
「女の発言は男を陥れるため・騙して金を取るため」という思い込みがある。女性の言うことを信じない。それ自体が性差別である。(私は先日院内集会で泣きましたが、悲しく辛かったから泣いたのに同情を誘うため、涙を武器にして、と言われました。私が悲しいから泣いた、と言う一番確率の高いものを無視され、何か他に目的があるのではないかと疑われています。これは私が女性だからでしょう。男性が会見で泣いていても男の涙に騙されるなとは言われません)
「会社に抗議していないのだから強制とは言わない」
「履きたくないけれど仕方がないから履いている」状態を「自ら嬉しくて履いている」に変換したがる。
強制の定義が「どれだけ抵抗したのか」「足を掴まれて無理やりに履かされる」だと思っている。
これは性犯罪やAV強要問題にも通づる。主戦場という映画を観て慰安婦問題にも通づると感じた。
「それをしなければいけない状況で仕方なくそうした」は「自らそれを望んでそれをした」ではないし、それは自由意志とは言わない。自由意志とは選択肢が与えられた状態で選ぶことだ。
そして多くの人が、心のどこかでは気がついているのに見ないふりをしている。本当は足が痛いのに無理をしてパンプスを履いている女性のこと、本当はしたくないのにしなければいけないと思ってセックスに答えた人のこと、本当はAVに出たくないのに出た人のこと、本当は慰安婦になりたくなかったのになった人のこと。
本当は「この人はやりたくないのだろう」と気がついていたのに、それを無視して見ないふりをして「抵抗しなかったからやりたかったに決まっている」と自分に言い聞かせている人がたくさんいる。と私は思う。
「そんなやり方は賛同者は増えませんよ」という批判
そもそも私は賛同者をなんとかして増やしたいと言っていない。もちろん増えた方がいいが、どうしても賛同できない人を無理に賛同させる問題ではないと思っている。実際に「義務付けられて困った人」「義務付けられて困っている人を助けたいと思っている人」が賛同してくれれば良い。
これには「マイノリティが当たり前の権利を得るにはマジョリティのジャッジが必要だ」という差別的心理があるのではないか。だから私は、それこそが性差別の問題であるのでそういう考えの人に一生懸命耳障りのいい言葉を使って伝えることはしない。
他人の行動をコントロールできる、できる権利があると思ってしまうことが問題である。
(他にも問題点が見つかり次第追加していきます。2019.6.25)